Iwai Tradition と岩井喜一郎 ― 竹鶴政孝を派遣した上司の名前が、本坊酒造 Mars Whisky のラベルに残った経緯
日本のウィスキーの起源を語るとき、出てくる名前は決まって二人です。1923 年に大阪・山崎で蒸留を始めた 鳥井信治郎 と、1934 年に北海道・余市で煙を上げた 竹鶴政孝。Suntory を作った男と Nikka を作った男。この二本立てで日本の蒸留史は語り尽くされてきたし、私自身も長らくそう思っていました。
けれど、竹鶴をスコットランドへ派遣した上司の名前を知っている人は、いまも多くありません。岩井喜一郎。摂津酒造の常務取締役兼技師長で、1918 年に部下の竹鶴をグラスゴーへ送り出し、1920 年に竹鶴から「ポット・スティル ウィスキー實習報告書」を受け取った人物です。摂津酒造のウィスキー計画はその後立ち消えになり、竹鶴は寿屋(現 Suntory)へ移ります。岩井はそのまま摂津酒造に 1937 年まで残り、戦後 1945 年に鹿児島の焼酎メーカー 本坊酒造 に技術顧問として招かれました。
今日、bar のリストにある Iwai Tradition という 4,500 円の瓶のラベルに残っているのは、その彼の名前です。彼が没後 60 年経ってもなお、本坊酒造のウィスキー設計の起点であり続けているからです。

教科書を渡した側と、教科書で蒸留所を立てた側
岩井喜一郎は 1883 年 8 月、徳島県板野郡藍住町に生まれました。1902 年に大阪高等工業学校醸造学科(現在の大阪大学工学部応用化学科の前身のひとつ)を 19 歳で卒業し、1909 年に摂津酒造へ技師として入社します。社内で連続式アルコール蒸留装置を発明し、1912 年に新式焼酎(連続式蒸留器で作る低価格・大量生産の焼酎)の量産化を主導した、当時の業界では知られた工学型技術者でした。1920 年には常務取締役兼技師長まで上り詰めています。
竹鶴政孝が摂津酒造の門を叩いたのは 1916 年。岩井の母校である大阪高等工業学校醸造学科の後輩で、就職先がないと突然訪ねてきた竹鶴を、岩井は阿部喜兵衛社長と相談のうえ受け入れました。そして 1918 年 7 月、24 歳の竹鶴を スコットランドへ派遣 する決定をします。グラスゴー大学で有機化学・応用化学を学ばせ、Campbeltown の Hazelburn 蒸留所などで実地研修をさせる ― 当時の日本企業としては破格の投資です。竹鶴は蒸留釜の内部構造を知るために、職人ですら嫌がる釜掃除を自ら買って出たという逸話が残っています。
2 年後の 1920 年に竹鶴は帰国し、岩井に「ポット・スティル ウィスキー實習報告書」全 2 冊を提出しました。後年「竹鶴ノート」と呼ばれることになる文書です。ポットスティルの形状、頂部の曲率、銅厚、mash bill(仕込み配合、大麦比率と酵母種)、発酵時間、蒸留温度、カット判断(前留・本留・後留の切り分け)、樽熟成の方針 ― 戦前の日本でウィスキー製造を始めるための、ほぼ全工程の仕様書がそこにありました。
ところが摂津酒造のウィスキー計画は、世界恐慌前の不況で立ち消えになります。竹鶴は 1923 年に寿屋へ移り、その後 1934 年に独立して大日本果汁(後の Nikka)を立ち上げました。岩井は摂津酒造に残って常務職を 1937 年まで続けます。竹鶴ノートは岩井の引き出しに入ったまま、1945 年まで 25 年間、誰の蒸留所の設計にも使われませんでした。
私は竹鶴政孝の伝記を 3 冊読んで、ようやく彼を派遣した男の名前を覚えました。そして覚えてから 5 年経つあいだ、その男が没後 60 年経ってもラベルに名前を残していることに私は気付いていなかった。ある夜、bar で何気なく頼んだ Iwai Tradition の裏ラベルに「岩井喜一郎」の文字を見つけて、ようやく一本の線がつながったのです。
62 歳の顧問依頼、77 歳の蒸留所設計
岩井が本坊酒造から技術顧問の依頼を受けたのは、戦後すぐの 1945 年。岩井 62 歳のときです。本坊酒造は 1872 年創業の鹿児島の老舗で、本格芋焼酎・麦焼酎が主力。ウィスキーは作っていませんでした。戦後の混乱期に洋酒進出を決め、岩井に技術指導を仰いだ形です。
ここで普通の伝記なら「岩井は引き出しにあった竹鶴ノートを取り出し」と続けるところですが、岩井が実際に山梨県石和の工場でモルトウイスキー製造設備を設計したのは、それから 15 年後の 1960 年、岩井 77 歳のときでした。本坊酒造の戦後事業は焼酎が主力で、ウィスキーは長らく構想止まり。本格的な工場建設に踏み切るまでに、それだけの時間がかかったわけです。
岩井が 1960 年に石和工場で引いたポットスティルは、頂部がストレートヘッド型(ねぎ坊主型でなく直線的に細くなる形)で、ラインアーム(蒸気導管)が下向き という独特の形状でした。ストレートヘッドは reflux(還流、気化したアルコールが再凝縮してスティル内に戻る量)が少なく、重く油分の多いスピリッツを取りやすい設計です。ラインアーム下向きも reflux を抑える方向に効きます。 Glenmorangie の 5.14m スティル が tall narrow で light spirit を狙うのとは、設計思想として正反対の方向に振った形状でした。
このスティルは 1985 年に石和工場が閉鎖されて長野県の信州蒸溜所(現マルス駒ヶ岳蒸溜所)に移される際に現役を退き、現在は 信州蒸溜所の見学コースに展示されています。瓶のラベルだけでなく、蒸留所の建物の中に、岩井の名前のついた物理的な設備が展示物として残っているわけです。

798m の標高と、19 年の沈黙
1985 年、本坊酒造は山梨石和工場を畳んで、長野県上伊那郡宮田村に 信州蒸溜所 を新設しました。標高 798m、中央アルプス駒ヶ岳の麓、日本でいちばん高い場所にあるウィスキー蒸留所 です。Suntory 白州は標高約 700m、メルシャン軽井沢蒸留所が約 850m。信州はその中間に位置します。標高が高いと夏冬と昼夜の温度差が大きく、樽内での ester(発酵中の酵母由来の果実香化合物)発達が進みやすい。冷涼な熟成庫を選ぶ設計判断は、岩井の没後の世代によるものでした。岩井は 1966 年 4 月 7 日に 82 歳で亡くなっており、信州蒸溜所を見ていません。
ここから先は岩井の物語ではなく、岩井設計を継承した側の物語になります。そして継承者たちは 1992 年から 2011 年まで、19 年間ウィスキーの新規蒸留を止めました。Whisky loch と呼ばれた日本ウィスキー全体の長期不況期、本坊酒造の本業(焼酎)が市況的に好調だったことが重なり、副業のウィスキーを止めて主業に集中する経営判断です。19 年というのは長い。1985 年に新設して 7 年で止め、再開時には岩井の世代どころか、現場担当の中堅も全員入れ替わっています。
2011 年に蒸留が再開され、2016 年には鹿児島県南さつま市に 津貫蒸溜所 が開設されました。本坊酒造の本拠地である鹿児島に戻り、本土最南端のウィスキー蒸留所 として、信州(標高 798m、内陸山岳熟成)と津貫(海岸、温暖湿潤熟成)の二拠点体制を確立。同じ会社が、内陸山岳と海岸という 180 度違う熟成環境を持っている例は、世界的に見ても多くありません。
内堀修身と軽井沢 が「閉じた第三のジャパニーズ」だとすれば、Mars 信州は「19 年休んで戻ってきた別の第三」です。同じ第三軸の二つの姿で、片方は閉鎖、片方は復活。両者を並べて飲むと、日本のウィスキー史を Suntory と Nikka の二本立てで語ってきた癖が、自分の中で少しずつ訂正されていきます。
Iwai Tradition の中身を、岩井の設計に対応させて読む
Iwai Tradition の現行公式仕様(本坊酒造)はこうです。ABV 40%、ノンエイジ(NAS)、non-chill filtered、原料は コーン 30%、ライトピート(3.5 ppm 以下)のモルトバーリー 70% のブレンデッド構成、樽は ex-bourbon と ex-sherry が主体 で、ロットによって ex-wine / port / new oak が混じります。価格帯は 4,000-5,000 円。
数値を一行ずつ、岩井の設計と対応させて読んでみます。
70% モルト + 30% コーン ― 純シングルモルトではなく、モルトとグレーンを足したブレンデッドです。岩井がもし「純度高く Scotch like を引く」ことを目指していたなら、シングルモルト 100% という選択肢もあったはずですが、本坊酒造は日常的に飲める価格帯のブレンドを選びました。Scotch like を、誰もが手の届く価格で出す ― これは Suntory 角や Nikka フロムザバレルと同じ価格帯設計の思想で、 興水精一が響 17 年で組んだ「調和」 のような高価格帯のシンフォニー設計とは別の枝です。
3.5 ppm 以下のライトピート ― Islay の Lagavulin 16(final spirit 35-45 ppm 想定)や Octomore(300 ppm malt)と比べると、桁が 2 つから 3 つ違う「ほぼピート無し」の領域です。 Bowmore の floor malting(25 ppm 想定) と比較しても 10 分の 1 以下。Iwai Tradition のグラスから来る煙感は、Islay 系の「焚き火を吸い込んだ厚手のセーター」ではなく、「薪ストーブの遠くの煤が、窓を開けたときにだけ通り過ぎる」程度。煙そのものを主張する設計ではなく、bourbon vanilla の甘さの裏側にうっすら影を落とすだけの脇役です。
ex-bourbon + ex-sherry ― bourbon barrel(American white oak、Q. alba)からは lactone(ココナッツ・バニラ様の香気成分)と vanillin が、ex-sherry からはドライフルーツの濃縮香と渋みが出てきます。Iwai Tradition の口当たりが「丸い」と評されるのは、bourbon barrel の lactone が支配的で、口に含んだときにまず ココナッツミルクが薄く伸びたような香り が来るからです。sherry の影は「干し葡萄をオーブンで温めたような甘さ」がロットによってちらほら混じる程度で、 David Stewart の Balvenie PortWood のように sherry の濃度で勝負する設計 とは別の方向です。
40% ABV、ノンエイジ ― これは在庫管理の柔軟性を取った設計です。19 年の休止期間(1992-2011)を経て、本坊酒造の原酒にはヴィンテージ年差が大きく残っています。年数表記を打つと製品の一貫性が出しにくい。NAS にすることで、信州と津貫の異なる年代の原酒をブレンドで安定させる選択 ― Compass Box の透明性堅持 とは逆の判断ですが、価格帯と消費者層を考えれば理にかなった選択です。
具体物に変換すると、Iwai Tradition のグラスから来るものは、本格焼酎屋の麦焼酎が持つ穀物の丸みを、bourbon barrel に通したときの bourbon vanilla 寄せ、その奥に薪ストーブの遠い煤、ロットによっては干し葡萄をオーブンで温めた残り香 ― そんな組み合わせです。 興水の響 17 年 のような調和を音楽として完成させた瓶とも、 Hakushu 12 の森の light peat のような立地起源の signature とも違う。Iwai Tradition の体感は、「派遣した側の上司が引き出しから出した報告書を、77 歳の彼が設計図に翻訳した結果が、66 年後の現代のブレンダーの手を経て 4,500 円の瓶に収まっている」 という、長い時間の物質的痕跡そのものです。
派遣した側の人生
岩井喜一郎は 1937 年に摂津酒造の常務職を辞し、1945 年に本坊酒造の顧問になり、1960 年に山梨石和工場のスティルを設計し、1966 年 4 月に 82 歳で亡くなりました。Iwai という名前を冠したブランドが製品化されたのは、彼の死後です。本坊酒造の Mars Whisky ブランド自体が 1981 年に整備され、岩井の名を冠したシリーズはさらに後年の発売。
岩井は自分の蒸留所を持ちませんでした。摂津酒造で部下を派遣し、報告書を受領し、25 年間引き出しで眠らせ、戦後別会社の顧問として、62 歳で招かれ、77 歳で設計を引いた。 竹鶴政孝の養子 威が父の Coffey still を 30 年回し続けた のと同じ時期に、岩井は他社の山梨工場で straight head のスティルを引いていました。派遣した側と派遣された側の人生は、戦後別の道で完結した。竹鶴ノートは岩井の引き出しと、竹鶴の余市の現場の両方で、別々の時間で別々の機械として実装されていったわけです。
次に飲むときに、何を確かめるか
Iwai Tradition を bar で頼むとき、私はもう「Suntory・Nikka 以外で飲める安いブレンド」とは思いません。グラスに鼻を近づけて bourbon vanilla の甘さの裏側にライトピートの薄い焚き火の煙が来るとき、それは 1920 年に竹鶴が岩井に渡した報告書 → 25 年の沈黙 → 1960 年の岩井 77 歳の石和工場設計 → 1985 年の信州移転 → 19 年休止 → 2011 年再開 → 現代のブレンダー という、長すぎる継承プロトコルの末端で起きている化学反応です。
ラベルにある「Iwai」の 3 文字は、自分で蒸留所を立ち上げる選択をしなかった男が、派遣した部下から受け取った仕様書を、77 歳になってから別会社で実装し、その死後に名前だけを残した結果です。次にこの瓶を開けるとき、ストレートヘッドのスティルから下りてきた重めのスピリッツに bourbon の lactone を被せた、その重なりを舌の奥でもう一度確かめます。岩井自身は、自分の名前のついた瓶を一度も飲んだことがありません。