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内堀修身と軽井沢 ― メルシャンが閉じた『第三のジャパニーズ』、Golden Promise とオロロソが瓶に残したもの

人物
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ジャパニーズウィスキーの系譜を二本立てで語る癖が、長いあいだ私にはありました。1923 年に山崎で蒸留を始めた鳥井信治郎の Suntory と、1934 年に余市で煙を上げた竹鶴政孝の Nikka。この二本の上下水道で、日本の蒸留史は説明できると思っていました。

その地図に第三の支流があったと気付くのは、軽井沢の小さなサンプルを口に含んだときです。メルシャン が長野県軽井沢の浅間山南麓で 1955 年から 2000 年まで実質的に動かしていた 軽井沢蒸留所 は、Suntory でも Nikka でもなく、Golden Promise というスコットランド産大麦とオロロソシェリーバットを独立に選んだ「もう一つの設計」だった。その設計を技術側で長く支え、閉鎖から解体までを見届けた最後のモルトマスターが、内堀修身 という名で蒸留所の記録に残っています。

彼の名前はラベルに出ません。瓶にも、オークションのカタログにも出ない。けれど 2026 年 1 月にロンドンの Christie’s で 1999 年蒸留の樽 2 本が £4,250,000(約 5.7M ドル)で落札されたとき、その樽を建てて並べて寝かせた約半世紀の判断は、彼と数人の同僚の手の中にしかなかったものでした。この記事は、その判断を瓶の中身から逆算して読みます。

軽井沢蒸留所のタイムライン。1955年に大黒葡萄酒として浅間山南麓に創業、1956年生産開始、1961年オーシャン、1962年三楽オーシャン、1976年に日本初のシングルモルト「軽井沢(特級)」発売、1985年三楽、1990年メルシャン、2000年12月31日に生産停止、2007年キリン傘下、2012年蒸留所閉鎖、2016年解体、2021年12月に三菱地所とPlan・Do・Seeによる新「軽井沢蒸留所」着工、内堀修身が顧問就任、2026年Christie's Londonで1999年蒸留樽2本が£4.25M落札という流れを横軸の年表で示した図解。

山崎・余市の影に隠れていた「大黒葡萄酒」という選択

軽井沢蒸留所の創業母体は、ぶどう酒の会社です。1934 年に設立された大黒葡萄酒が、1955 年に長野県北佐久郡軽井沢町で蒸留所を建てたのが始まりで、実質的な生産開始は翌 1956 年。Suntory 山崎 (1923) から数えて 32 年遅れ、Nikka 余市 (1934) から数えて 21 年遅れの参入でした。

社名はその後めまぐるしく変わります。1961 年にオーシャン、1962 年に三楽オーシャン、1985 年に三楽、1990 年にメルシャン、2007 年にキリングループへ統合。/etc/hostname を毎年書き換えているような社名変遷ですが、製造現場のラベルが書き換わるたびに、瓶の中身の設計が大きく振れたわけではありません。むしろ振れなかったことが、後年の希少性につながります。

1976 年、軽井沢は日本初のシングルモルトウィスキー(特級)を「軽井沢」名義で発売しました。Suntory の山崎シングルモルトは 1984 年、Nikka の余市シングルカスクは 1989 年。「日本初のシングルモルト」というプレートを最初に掲げたのは、二大ブランドではなく軽井沢だった ことは、いま冷蔵庫の前で軽井沢の小瓶を眺めながら、もう一度言葉にしておきたい事実です。

ここで「軽井沢こそ真のパイオニア」と書きたくなる衝動を私は留保します。1976 年当時、軽井沢は商業的に Suntory にも Nikka にも勝てていません。シングルモルトを最初に瓶詰めしたという事実は、結果として 50 年経って評価軸が変わったあとに意味を持ち始めたもので、当時の貸借対照表の上では、ただ売れない高級ラインを一本作ったというだけのことです。

Golden Promise 100% という静かな逸脱

軽井沢の設計でいちばん奇妙なのは、原料大麦の選び方です。

ジャパニーズの主流は、長らく国産二条大麦か、欧州産の二条大麦のブレンドでした。Suntory も Nikka も、ピート処理の有無や産地は別として、大麦そのものは「適量を安く確保できる二条大麦」の系列を使ってきた。これに対して軽井沢は、スコットランド産の Golden Promise を 100% 使い続けた ことが Wikipedia / WHISKY Magazine Japan の蒸留所紹介で確認できます。

Golden Promise は、1960 年代後半から 1990 年代まで Macallan が主軸に据えた品種です。収量がやや低く、単位面積あたりの利益では他の品種に劣るため、スコットランドでも次第に Optic や Concerto に置き換わっていきました。Macallan ですら、現在では Golden Promise を主軸ではなく一部のラインのみに残している。その品種を、地球の反対側にある日本のメルシャンが、商業的に有利でもないのに 100% で揃え続けた。

この選択を「Macallan を真似ようとした」と要約してしまうと、いちばん大事なところを取り逃します。Macallan が Golden Promise を選んだのは、シェリー樽との相性が良く、ボディに重さを与えてくれるからです。軽井沢の設計はその先まで踏み込んでいた。スティルの容量、樽のサイズ、立地の温度帯、そのすべてが「重いボディの長熟向き」という一つの方向に揃っている。100% Golden Promise は、その揃いの最後のピースとして選ばれた品種だったと読むほうが、瓶の中身に近いと思います。

4,000L のポットスティル ― 「小さい」がもたらしたもの

軽井沢のポットスティルは 4 基ありました。初留器 2 基、再留器 2 基、いずれも容量 約 4,000 リットル という小さな器です。比較のために並べると、Macallan の 12,500L、Suntory 山崎の複数サイズ群、いずれも軽井沢の 3 倍前後の容量です。

スティルが小さいということは、銅と蒸気の接触面積が体積に対して相対的に大きいことを意味します。これは銅が硫黄分や軽い不純物を吸着する作用が強く効くということで、同時に reflux(還流:気化したアルコールがスティル内で再凝縮する量)も少なく、結果として 重く、油分の多いスピリッツ が下りてくる方向に振れます。

軽井沢の 4 基のスティルは、この「小型 × heavy body」の方向に意図的に振られていた、と私は読みます。Golden Promise の重い大麦を使い、小さなスティルで蒸留し、その油の多いスピリッツを 450 リットルの シェリーバット(標準的なシェリーバットは 500L 前後で、450L は若干小さめ) に詰める。バットが小さければ、原酒と樽材の接触表面積が体積比で増え、樽香の抽出が速まる。Wikipedia 日本語版の記述によれば、軽井沢のシェリー樽はスペインおよびメルシャン自社のシェリー酒でシーズニングされたファーストフィルを主に使っていた とされる。樽材から最大限の色と渋み、ドライフルーツの濃縮香を取り出す前提で、すべてが組まれている。

ここで内堀修身を含む蒸留所側が選んだトレードオフを言語化しておきます。彼らは「速く回して大量に出荷する」設計と、「ゆっくり重く育てて、開けたときに長く語れる」設計のあいだで、後者に張った。商業的には前者が正解の時代でした。1970-80 年代のジャパニーズウィスキー市場は、ブレンド主体のハイボール文化で動いていて、シングルモルトの長熟は財務的に賭けでした。その賭けの結果として瓶詰めされた原酒が、いまオークションで億単位の値段を付けている。皮肉と言ってもいいし、構造的な必然と言ってもいい。

浅間山の標高がしていた仕事

立地の話を一段だけ深く書きます。軽井沢蒸留所は浅間山の南麓、長野県北佐久郡軽井沢町に位置し、おおむね標高 850m 前後と紹介されることが多い場所にありました。これは Suntory 山崎(大阪府島本町、標高数十 m)や Suntory 白州(山梨県北杜市、標高約 700m)よりも高く、年平均気温で 5℃ 前後の差があります。

熟成中の Angel’s share(樽からの自然蒸発分) は、気温が低いほど遅くなります。スコットランド・スペイサイドでは年に 2% 前後、暖かい台湾の Kavalan では 10% を超えるとも言われる損失率が、軽井沢では年に 1〜2% 程度で済む。つまり 30 年寝かせても樽の中身が枯渇しにくい。これは長期熟成を物理的に成立させる前提条件です。

Macallan のスペイサイドが 30 年もののシェリーカスクを商品として出せるのは、気温の低さも一因です。軽井沢はそれと同等以上に冷涼な熟成庫を持っていて、しかも標高があるので空気の流れがある。長熟向きの環境を、設計者は地理的に与えられていました。

しかし「与えられていた」と書くのと「使いこなした」と書くのは別です。冷涼な熟成庫を持っていても、そこに重くて樽香を強く受けるスピリッツを入れなければ、長熟の意味は薄い。Golden Promise の重い麦芽、小型スティルの heavy body、シェリーバットのファーストフィル、そして 850m の低温熟成という 4 つの条件を 全部噛み合わせて約半世紀回した ことが、いまオークションの値段に翻訳されているものの正体です。内堀修身という人物が「最後のモルトマスター」と呼ばれるとき、それは「他の誰かが設計を始めて、彼が最後の何年かを担当した」というニュアンスではなくて、この 4 つの噛み合わせを長期間ぶれずに維持し続けた現場側の責任者だった、という意味だと私は読んでいます。

2000 年 12 月 31 日 ― 売れなかった蒸留所が止まる日

軽井沢の生産は 2000 年 12 月 31 日 に正式に止まります。蒸留所が閉鎖されるのは 12 年後の 2012 年、建物が解体されたのは 2016 年 1 月ですが、スピリッツが新しく作られたのは 2000 年が最後でした。

止まった理由は、書いてしまえばシンプルです。売れていなかった。1990 年代後半のジャパニーズウィスキー市場は底にあり、ブレンドの売上は焼酎とハイボール文化へ流れ、シングルモルトの単独需要はまだ立ち上がっていなかった。メルシャンはキリン傘下で、ワインを主軸とする会社にとって、稼働率の低いウィスキー蒸留所は手放すか止めるかの選択を迫られていた。最も評価されているジャパニーズ蒸留所は、結果として最も稼げず最も早く閉じた という、いま振り返ると居心地の悪い事実が、ここにあります。

ここで蒸留所と内堀の側に立って想像してみます。Golden Promise を 100% で揃え、4 基のスティルで heavy body を出し、450L バットで樽香を取り、850m の標高で 30 年寝かせる ― それを 40 数年やってきた現場が、ある年の 12 月 31 日を最後に新規蒸留を行わなくなる。設備は残っていて、樽も残っていて、レシピも頭の中にある。けれど、次の年からは「樽を見守る」だけが仕事になる。

この時期に蒸留所を辞めて他社に移ることもできたはずです。事実、当時のメルシャン軽井沢には複数の技術者がおり、その後それぞれの道に進んでいきます。けれど内堀は残った。WHISKY Magazine Japan の蒸留所紹介と、Impress Watch の 2021 年復活ニュースの記述を突き合わせると、彼は 2012 年の閉鎖まで、その後の樽の保管・モニタリング期間を含めて、結果として約 50 年(資料によっては約 48 年)を軽井沢でウィスキー製造に従事した とされています。

50 年というのは長いです。1976 年に日本初のシングルモルト「軽井沢」が出たころには現場の中堅で、2000 年の生産停止時には責任者層で、2012 年の閉鎖時には事実上の最後の現場代表で、2016 年の解体まで樽の最後の動きを見ていた。一人の人間の職業人生の大半が、一つの蒸留所の生まれと死にぴったり重なっている という事実は、彼を主役にしようがしまいが、軽井沢の物語の重力場として残り続けます。

秩父への合流 ― 蒸留所は閉じても DNA は移植できる

2000 年代の半ば、軽井沢の生産停止後、肥土伊知郎が 稼働を停止していた軽井沢蒸留所で行われた研修の場で 内堀修身と出会った、という記録が ベンチャーウイスキー / 秩父蒸留所まわりの資料に残っています。日付の細部については複数記述があり断定はできませんが、おおむね 2006 年前後とされる場面です。

肥土はその後、メルシャンを離れた内堀を ベンチャーウイスキー秩父蒸留所のチーフディスティラー として招きます。秩父の最初の蒸留は 2008 年 2 月。日本で 23 年ぶりに新設されたモルト蒸留所のチーフを、軽井沢で約半世紀を過ごした人物が引き受けたわけです。

このつなぎ方は、技術継承の文脈で見ると見落とせない出来事です。軽井沢が選んでいた 「ヨーロッパ品種の大麦 × 小型スティル × ファーストフィルのシェリー樽 × 冷涼長期熟成」 という設計思想は、肥土伊知郎が秩父で選んだ 「フロアモルティング × 木桶発酵 × 小型ポットスティル × ミズナラを含む多種樽実験」 という設計思想と、似ているようで違います。共通しているのは「小さく、ぶれず、ロットの個性を消さずに瓶詰めする」という運営側の姿勢で、これは大手にはできない選択です。内堀が軽井沢から秩父に持っていったのは、特定のレシピというよりは、この姿勢の方だった と私は読んでいます。詳細は Ichiro’s Malt の起点 で別途書きました。

そして 2021 年 12 月、軽井沢の地で 三菱地所と Plan・Do・See を中心とする新会社が「軽井沢蒸留所」を再着工し、内堀は顧問として迎えられます。蒸留設備も人員も商品ラインも完全に別物で、旧メルシャン軽井沢の続きでは厳密にはありません。けれど、Golden Promise を使い、シェリーバットを主軸に据え、冷涼な高地で寝かせるという設計の方向だけは、内堀の手によって新蒸留所の現場にも一定程度受け渡されることになります。

オークションが先に評価したもの

2024 年 10 月、香港の Sotheby’s で Karuizawa 1960 52 年 Cask No. 5627 が hammer price 約 28.3 万ドル、別ロットの 52 年瓶が約 37.3 万ドルで落札されました。2026 年 1 月にロンドンの Christie’s で 1999 年蒸留のシェリーカスク 2 本が合計 £4,250,000(約 5.7M ドル)、1 樽あたり hammer 約 228.8 万ドル。1999 年蒸留というのは、軽井沢が生産を止める前年に詰められた原酒のことです。

これらの数字を「投資の話」として読むのは簡単ですが、私はあえてエンジニアの視点で読みます。1960 年のある日、軽井沢の現場で Golden Promise のウォッシュを 4,000L のスティルに張った担当者がいた。1999 年のある日、450L のシェリーバットに spirit を充填してウェアハウスの何段目に積んだ担当者がいた。その担当者たちのうち少なくない人数を、内堀修身という一人の責任者が、長い時間軸で見守ってきた。樽の中で起きる化学反応のほとんどは、人間の意思とは無関係に進みますが、樽の選び方、立地の選び方、スピリッツの設計、そして「止めずに長く寝かせ続ける」という運営判断 は、人間の責任の中にあります。

オークションが先に評価したのは、その判断の積層です。蒸留所が物理的に閉じて 14 年経った今、市場が遅れて値札を貼っているのは、内堀たちが現場で当たり前に続けていた小さな揃え方の総和でしかありません。

瓶の中身の方が、人の名前より長く残る

軽井沢の物理的な建物は 2016 年 1 月に解体されました。同じ場所には別の事業者が新しい設備を建てましたが、それは新しい蒸留所であって、旧軽井沢ではありません。1955 年から 2000 年まで動いていた 4 基のスティルも、それを動かしていた人々の多くも、もう現役ではない。

それでも、軽井沢のグラスは残ります。1960 年、1965 年、1971 年、1981 年、1999 年 ― それぞれの年のシェリーバットに入れられた spirit は、いまも世界のオークション会場とプライベートセラーに散らばっていて、開けられるたびに、内堀修身という一人の現場責任者を含む、何十人かの蒸留所側の人間の決断を、舌の上で証言します。

ラベルには彼の名前は出ません。Christie’s のカタログにも出ません。けれど、Golden Promise を選び、4,000L のスティルを選び、450L のシェリーバットを選び、止めずに約半世紀回し続けた決断は、すべて瓶の中に残っている。最後のモルトマスターが顧問として復活蒸留所に戻ったとき、彼が新しい設備に持ち込めたのは、その決断の輪郭だけです。輪郭は、瓶を開けた人が舌で確かめるしかありません。

私の地図にあった「Suntory と Nikka の二系統で日本の蒸留史は説明できる」という暗黙の前提は、軽井沢の小瓶を一度開けたあとは、もう戻りませんでした。第三の支流は、たしかにあった。閉じていて、もう新しく流れることはない。けれど、止水域に溜まっていた水は、当時の現場が選んだ大麦と樽と気温の関数として、いまも世界のグラスの中で揺れている。それを見届けた人物が約 50 年現場にいて、いまも別の蒸留所の現場で若い樽を見つめている、ということ自体が、私にとってはひとつの慰めです。

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