竹鶴政孝の3冊のノート ― Scotland修行から余市完成までの16年
1918年12月、24歳の日本人が Glasgow の下宿先に着いた最初の夜、家主に「日本人は米を食べるのか」と大真面目な顔で聞かれた、という記録があります。竹鶴政孝。摂津酒造の技師見習いで、大阪高等工業学校醸造学科を出た応用化学の男。派遣元の常務取締役・岩井喜一郎から預かった英語の紹介状と、母校から取り寄せた化学系の教科書を鞄に入れて、日本人ウィスキー技師の第一号として、たった一人で Scotland に降り立ったところです。
家主の質問に竹鶴が何と答えたかは分かっていません。ただ、彼はそれから2年半のあいだに、3冊のノートを書きます。Longmorn(Speyside)で書いたモルトの本、Bo’ness(Lowlands)で書いたグレーンの本、Hazelburn(Campbeltown)で書いたブレンド用モルトの本。この3冊が、1934年に彼が北海道余市で開いた蒸留所の、そのまま設計図になりました。
派遣から余市の第一蒸留までにかかった時間は16年。この記事は、その16年のうちの最初の2年半でノートに何が書かれ、それがどこの誰の引き出しに何年眠り、どの決断のときに開かれたのかを追いかけます。

なぜ「3拠点」だったのか ― 単一蒸留所を見て帰らない判断
1918年の日本企業で、24歳の技師をScotlandに2年半送り出す判断は破格です。摂津酒造は連続式蒸留による新式焼酎で成功した中堅酒造で、社長・阿部喜兵衛と常務・岩井喜一郎が「本物のウィスキーを日本で作る」ことを決めた ― と書けば見出しは整いますが、その中身は投資として相当な博打です。派遣費用と滞在費、当時の為替で見て、竹鶴の年収の数十倍が Scotland に消えた計算になります。
面白いのは、この投資に対する竹鶴の使い方です。彼は「Longmorn か Hazelburn か、どこか一つに腰を据えて技術を持ち帰る」という常識的な使い方をしていません。Glasgow 大学で Thomas Stewart Patterson 教授のもとに有機化学の聴講生として登録しつつ、Speyside の Longmorn(John Duff & Co. が1893年に建てた、当時としては新しい大型モルト蒸留所)にモルトの実地見習いに行き、そこが終わると Lowlands の Bo’ness(James Calder & Co. の連続式グレーン工場)に移り、最後に Campbeltown の Hazelburn(Mackie & Co.、後の White Horse Distillers 系)でブレンド用モルトの3か月実習を積んでいます。
これを「熱心な勉強家だった」と美化すると、いちばん大事な判断が逃げます。竹鶴は 「日本でウィスキーを作るのに必要な工程は、Scotlandの中で複数の蒸留所に分散している」 と考えていた、と読むほうが自然です。モルト単体でも、グレーン単体でも、ブレンド用モルト単体でも、日本の1蒸留所は成立しない。三種類の設備と工程を頭の中で組み合わせて、はじめて一つの蒸留所が設計できる。この視野は、モルト1本の技術者としてではなく、化学工学の設計者として現地に立った人間のものです。
私はここで竹鶴を「天才だった」と書きたい誘惑にかられます。しかし正直に言うと、彼が3拠点を回れたのは相当程度、運の産物でもあります。Longmorn の受け入れは Glasgow のジャーナリストの紹介、Bo’ness の受け入れも同じ紹介筋、Hazelburn は Mackie & Co. の当時の実務責任者 P.M. Innes が竹鶴の熱意を買った偶然の産物です。3拠点を戦略として組んだのではなく、開いた扉を全部くぐった結果として3拠点になった、と伝記類の一次資料は一様に語ります。破格の投資を送り出した岩井の側から見れば、幸運だった。
Longmornのノート ― 「pHの測り方」を大学ノートに延々書く応用化学者
3冊のうち、Longmorn のノートに書かれている内容は、いま公開されている抜粋を読むと、大学のノートとしては異常に実務的です。麦芽の温度管理、mash tun(糖化槽)の投入手順、糖度測定、そして pH の測り方。竹鶴はもろみのpHを繰り返し計測して、酵母投入前の酸性度、発酵中の推移、発酵完了時の値を、時系列でノートに刻んでいます。
pHは、水素イオン濃度を示す化学の基本値です。Sørensen が pH という概念を提唱したのは1909年で、竹鶴の Longmorn 実習の時点でまだ10年しか経っていません。当時のScotlandの現場ブレンダーたちが日常的に pH を測っていたかというと、実はそうでもない。糖度計と比重計、あとは経験の舌で酸味を見る、というのが多数派だった時期です。竹鶴は Glasgow 大学の Patterson 研究室で覚えたばかりの化学分析の手法を、Longmorn の粗放な現場に持ち込んで、自分でデータを取っていた。
これを「先進的だった」と持ち上げる書き方も気持ちが悪いので、もう少し正確に書きます。彼は Scotland の職人が測っていない数字を、日本で再現する必要があるから測っていた。感覚で伝承できる技術を、日本語の技術文書として第三者に伝えるには、数字に変換するしかない。彼のノートが極端に実務的なのは、日本での再現性を最初から前提にしていたからで、Scotlandの現場を敬愛して真似しようとしたのではなく、日本に移植するための翻訳作業だった、というのが実態に近い。
Bo’nessのノート ― ポケットの中の紙片と、夜の清書
Bo’ness では、竹鶴はノートを取らせてもらえていません。James Calder & Co. のグレーン工場は当時の産業機密の塊で、蒸留塔(Coffey still)の内部構造を紙にスケッチすることも、細かい寸法を書き留めることも禁止されていました。
ここで竹鶴が取った行動は、後年の伝記でしばしば紹介される種類のものです。彼は小さく切った紙片と、短く削った鉛筆をポケットに忍ばせて工場に入り、休憩時間になるとトイレの個室で紙片に走り書きをして、夜、下宿に帰ってから清書した ― という記録が、竹鶴自身の自伝『ウイスキーと私』(NHK出版、1976)と、複数の伝記に共通して残っています。
この工程で書かれた Bo’ness のノートには、Coffey still(連続蒸留塔) の analyser(前段塔)と rectifier(後段塔)の段数、plate(蒸留段)の間隔、蒸気の吹き込み位置、留出液の抜き取り高さといった、まさに機密扱いだった寸法情報が、記憶からの再構成としてまとめられています。正確性は現場で書けた Longmorn より落ちるはずですが、それでも1963年に息子の竹鶴威がScotlandからCoffey stillを買い付ける40年以上前に、政孝はこの装置の物理をノート1冊分、日本語で持ち帰っていました。
私はこの「トイレで書いた紙片」の逸話を読むたび、二つのことを思います。ひとつは、彼が身の危険を顧みなかった若さ。もうひとつは、彼が Scotland の側から見れば技術泥棒だった という当たり前の事実です。Bo’nessでの2か月半、彼は歓迎された研修生であると同時に、母国のために設計図を盗み出す競合の技師でした。Bo’ness のノートは今も現存し、朝ドラの資料展示などで一部が公開されていますが、そのページを見るとき、私は正直に言うと、Bo’ness に立たされた竹鶴が緊張と負い目を同時に抱えていた朝のことを、勝手に想像します。
Hazelburnのノートと、Rita ― Campbeltownで書いた最後の1冊
1919年12月、竹鶴は Mackie & Co. から Hazelburn での3か月実習の許可を得ます。翌1920年1月、彼は Campbeltown に移ります。Hazelburn は当時 White Horse のブレンド用モルトを供給していた蒸留所で、モルト単体の完成度ではなく 「ブレンドの中で機能するモルト」 を作るための現場でした。1つ目のノートが素材、2つ目のノートが装置だとすれば、3つ目のノートは設計思想を書いた本です。
Hazelburn での実習中、竹鶴は下宿先の家主の娘 Jessie Roberta Cowan(Rita)と出会い、1920年1月8日に結婚します。ノートを書く仕事の合間の3か月で、竹鶴は生涯の伴侶と、生涯の蒸留設計の両方を Campbeltown で得ました。
そして帰国します。1920年11月、竹鶴は Rita を連れて日本に上陸し、摂津酒造の岩井に 「ポット・スティル ウヰスキー實習報告書」全2冊 を提出しました。狭義の「竹鶴ノート」とは、この帰国時に提出された Hazelburn 実習報告書の2冊を指します。冊子の中には、Elgin 用のノートと Bo’ness 用のノートが既に別便で提出済みだ、という記述もあります。つまり岩井の手元には、実質的に3拠点の実習ノートが揃った。日本でウィスキーを作るための、当時世界に存在した最も完備な日本語の技術文書一式です。
ところが、摂津酒造のウィスキー計画は、第一次大戦後の恐慌で立ち消えます。3冊のノートは、岩井の引き出しに入ったまま、25年間、誰の蒸留所の設計にも使われませんでした。
1923年、山崎 ― 「北海道は寒すぎる」「だから良いんです」
3年後、1923年。摂津酒造で行き場を失った竹鶴は、大阪の寿屋洋酒店(現Suntory)の鳥井信治郎に、10年契約の技師長として招かれます。鳥井が本気で本格ウィスキーを作ろうとしていて、竹鶴が持ち帰った3冊のノートを商業化できる唯一の実装者だった、というのが両者の合意点でした。
ここで、日本のウィスキー史でおそらく最も語り継がれる場面が出てきます。蒸留所の立地選定です。竹鶴は、Scotland Highland の気候に近い北海道を主張しました。冷涼・湿潤・海風・良質な水源・近隣のピート層。彼が Longmorn と Hazelburn で書いた3冊のノートは、この気候条件を前提に組まれた工程書です。ノート通りの蒸留所を作るなら、環境も Scotland に寄せるべきだ、というのが彼の主張でした。
鳥井の返答は冷めていました。北海道は原料の運搬コストが高すぎる。大阪の消費地から遠すぎて、輸送に時間がかかりすぎる。何より、北海道は寒すぎて、若い蒸留所を回すのに向かない。この時、竹鶴は静かに 「だから良いんです」 と返した、という記録が複数の伝記に残っています。寒さがトラブルではなく味の設計要素だ、という主張です。
私はこの短いやり取りを読むたび、少しだけ胸が締め付けられます。二人とも間違っていなかった。鳥井の判断は経営者として合理で、山崎(大阪府三島郡島本町山崎)は原料と流通の両面で最適地だった。竹鶴の判断は技師として合理で、彼のノートが要求する気候は北海道側にあった。同じ事実を見て、経営と工学が別の結論に着地するという、事業と技術者の避けられない断層が、1923年の大阪でくっきり出た瞬間です。
そして竹鶴は10年契約を最後まで務めます。山崎で作られたスピリッツは、彼のノートに書かれた通りの手順で、しかし彼のノートが想定した気候ではない土地で、樽の中で眠りに入りました。
1934年、余市 ― 16年遅れの、ノート通りの蒸留所
1934年3月1日、竹鶴の寿屋10年契約が満了します。彼は独立し、北海道余市郡余市町に 大日本果汁株式会社(現Nikka Whisky Distilling Co., Ltd.)を創業しました。りんごジュース製造を名目に、蒸留所建設の資金を回すためです。1936年に第一蒸留、1940年に最初のウィスキー製品「ニッカウヰスキー」が出荷されます。
余市の立地は、Longmorn と Hazelburn のノートに書かれた気候条件を、日本国内で最も忠実に再現できる場所として選ばれました。冷涼・湿潤・海風・水源・ピート。彼が Scotland で1918年から書き始めたノートが、ようやく ノート通りの土地 に載った瞬間です。1918年12月にGlasgowに着いてから、16年が経っていました。
面白いことに、彼が余市で最初に据えた設備は、ノート通りの Longmorn 型モルト蒸留所でした。Bo’ness のノートに書いた Coffey still(連続蒸留塔)は、余市には入れていません。Coffey still が Nikka に来るのは1963年、政孝ではなく息子の竹鶴威 の代です。3冊のノートのうち2冊は、政孝が生きているあいだに彼の手で余市に実装されましたが、Bo’ness の1冊だけは、書いてから43年後に息子の手で開かれた、ということになります。
終わりに ― 3冊のノートは、書いた本人よりも長く生きた
竹鶴政孝は1979年8月29日、85歳で没します。余市開所から45年、Bo’ness のノートを息子が使って Coffey still を導入した1963年から16年後です。彼は、宮城峡(1969年開所)まで見届けています。
3冊のノートは、彼が書いたものである以上に、彼を書いたものでもあります。1918年の Glasgow で、家主に「日本人は米を食べるのか」と聞かれた24歳の応用化学者は、Longmorn の pH と Bo’ness の紙片と Hazelburn の設計思想を身体に通して、1934年の北海道で、ノート通りの蒸留所を建てました。彼が Scotland で書いた3冊は、書かれたときには派遣元の引き出しで眠り、書いた本人が寿屋の技師として山崎で我慢していた10年のあいだも眠り、彼が自分の名前で蒸留所を建てるまで16年かかった。
この16年の遅延は、竹鶴の落ち度ではありません。彼の側では、Longmorn を出た時点で余市の設計は決まっていた。ただ、そこに至るまでに、派遣元の経営破綻と、鳥井信治郎との「北海道は寒すぎる」の断層と、10年契約の残任期間が挟まりました。書かれたノートが、書かれた通りの蒸留所として実装されるまで、その人物の人生の後半をほとんど費やす。この時間感覚は、余市の一杯を飲むときに、私にとってはいちばん静かに効きます。
次に余市を開けるとき、瓶の中身は1918年12月の Glasgow の下宿の夜と、1919年の Longmorn のもろみのpHと、1920年1月8日の Rita との結婚と、1923年の大阪での「だから良いんです」と、1934年3月1日の余市の第一蒸留と、地続きです。3冊のノートは、書いた本人よりも長く生きて、いまも瓶の中で機能しています。
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