マルス駒ヶ岳と本坊酒造の二拠点熟成 ― 1985 年に作って 1992 年に止め 2011 年に再開した蒸留所が、信州 798m と津貫の海岸で『同じスピリットを別々に育てる』と決めた工学
冬の終わりごろ、家のキッチンで シングルモルト駒ヶ岳 2024 エディション をグラスに注ぎました。50% という樽出しに近い度数で、室温で 15 分置いてから、まず加水なしで一口。隣には対比のために 白州 12 年 を同じグラスで並べています。どちらも標高の高い場所にある蒸留所のシングルモルトで、白州は山梨県北杜市、標高約 700m。マルス駒ヶ岳は長野県上伊那郡宮田村、標高 798m。日本のウィスキー蒸留所のなかで、いちばん高い場所にあります。
ところが、グラスから来るものはずいぶん違いました。白州 12 年が「森の朝、落ち葉の下の湿った腐葉土」を引いてくるのに対して、駒ヶ岳 2024 はもっと厚みのある油分です。干し柿を半分に切って中の白い粉が浮いた断面のにおい、奥に 薄く煮詰めた林檎ジャムの底、最後に バーボン樽の lactone がココナッツミルクのように回り込む。そういう体感です。標高は近いのに別の何かが効いている。瓶のラベルを裏返すと「信州蒸溜所 で蒸留 / 信州・津貫 で熟成」とある。同じスピリットが、長野の山の上と鹿児島の海岸で、別々に育てられた原酒のブレンド。それが正体でした。

798m の山と、薩摩半島の海岸
本坊酒造は 1872 年創業の鹿児島の総合酒類メーカーで、本業は本格焼酎です。ウィスキーは本業ではなく、戦後の洋酒進出の延長で 1949 年に山梨県石和工場で試験的に開始されたもの。1985 年に長野県上伊那郡宮田村に マルス信州蒸溜所(2024 年 3 月 1 日付で マルス駒ヶ岳蒸溜所 に名称変更)を新設し、ウィスキー製造の本拠地を信州に移しました。
宮田村は中央アルプス駒ヶ岳の西麓、標高 798m。年平均気温は約 9°C、夏は 30°C 近くまで上がりますが冬は氷点下 15°C まで下がる。夏冬の温度差が 45°C 前後あり、昼夜の温度差も大きい。3,000m 級の山々から下りてくる雪解け水は花崗岩の地層を通って濾過され、ミネラルを含んだ軟水になります。蒸留所の選地としては、Speyside の高地ではなく、むしろアイラの内陸というよりも アメリカン・ロッキー山脈の麓に近い大陸性気候 に振れた条件です。
ここまでは「標高でジャパニーズを差別化する」という設計判断で、白州(山梨県北杜市、標高約 700m)と並列に語れます。本坊酒造の独自性は、ここから先にあります。
2016 年、本坊酒造は鹿児島県南さつま市加世田津貫に マルス津貫蒸溜所 を新設しました。本坊家発祥の地で、薩摩半島南西の山間にある 本土最南端のウィスキー蒸溜所。北緯 31.3°、海岸標高約 30m、年平均気温は約 18°C で、信州との 緯度差 4.4°・標高差約 770m・年平均気温差約 9°C。盆地状の地形のため夏は 32°C を超え冬も 5°C 前後と寒暖差は残るものの、気候の絶対水準は信州とまったく違う 温暖湿潤 です。
そして同じ 2016 年 6 月、本坊酒造はもうひとつ熟成庫を増やしました。屋久島エージングセラー。鹿児島本土の南南西約 60km、世界自然遺産の島の上に建てられた、蒸留設備のない熟成専用の蔵。夏は気温 38°C・湿度 85% にもなり、樽から蒸発していく Angel’s Share(天使の分け前、樽熟成中に蒸発するアルコール・水分)は年約 8% で、信州の推定 2% の 4 倍です。
つまり本坊酒造の現在の体制は 2 つのモルト蒸溜所 + 3 つの熟成庫。同じ会社が、内陸高地・海岸盆地・亜熱帯島嶼という 3 種類の気候を同時に運用しています。これは Suntory が山崎・白州・知多で持つ「複数蒸留所による複数プロファイル」とも、Nikka が余市・宮城峡で持つ「同社内の対照設計」とも違う。蒸留した原酒の一部を別の気候の熟成庫に船で送って育てる、という珍しい在庫設計です。
19 年の沈黙が残したもの
ここから先は数字の話になります。
1985 年に新設された信州蒸溜所は、わずか 7 年で蒸留を止めました。1992 年から 2011 年まで、19 年間 ウィスキーの新規蒸留がゼロ。21 世紀のジャパニーズウィスキー復権の物語のなかで、本坊酒造のこの 19 年はあまり大きく語られませんが、これは判断ミスではなく 生存判断 でした。
トリガーは 1989 年 4 月の酒税法改正です。それまでの「ウィスキー特級・一級・二級」という級別制度が廃止され、価格に直結する税負担が組み変わりました。とくに大衆価格帯だった二級ウィスキーの店頭価格は、改正後 1,630 円から 3,200 円程度に急騰。価格急騰でジャパニーズウィスキーの大衆消費は冷え込み、1980 年代後半から始まっていた業界全体の「ウィスキーロッホ(whisky loch、需要に対する原酒過剰)」を加速 させました。本坊酒造のウィスキー事業は副業で、本業の焼酎は当時市況的に好調。副業を止めて主業に集中する という判断は、経営として整合的でした。
整合的、というのが厳しいところです。19 年というのは長い。1985 年に新規設備で動き出した蒸留所を 7 年で止め、再開時には現場の中堅も全員入れ替わっています。製造ノウハウは紙の手順書に残っても、手の動きと判断は人間にしか残らない。社内には「もう免許を他社に譲渡したほうがいい」という声もあったと、後年の社長談で公開されています。
それでも本坊酒造は信州蒸溜所の設備を解体せず、樽庫もそのまま維持しました。製造は止まっても、既存樽の熟成は止まらない。1992 年に止めた時点で 7 年分の原酒があり、1992-2011 の 19 年間、それらは静かに信州の冷涼な樽庫で育ち続けました。再開した 2011 年時点で、手元には 19 年以上熟成した既存原酒 が偶然残っていることになります。これが再開後早期にプレミアム年数表記ボトルを出せた根拠であり、19 年の沈黙が残した唯一の資産でした。
2008 年のサントリー「角ハイボール」キャンペーンが日本のウィスキー需要を再点火し、2009 年に当時の本坊酒造社長 本坊修(現会長)が信州蒸溜所の蒸留再開を承認。2011 年 2 月に新しいスピリットが釜から下り始めました。再開時点で世界はジャパニーズウィスキーのブームに入っており、本坊酒造はこのタイミングに在庫資産 + 新規蒸留の両輪で乗り出すことができた。「英断」と書きそうになりますが、当時の関係者にとっては、ただの 延長線上の現場仕事の再開 だったはずです。

草野辰朗の手のなかで、二拠点が一本に収束する
現代の本坊酒造のウィスキー製造を支えているのは、草野辰朗(チーフディスティリングマネージャー兼ブレンダー、本坊酒造入社 11 年目)と、竹平考輝(マルス駒ヶ岳蒸溜所長)です。社長は 本坊和人。私が手にしている駒ヶ岳 2024 エディションは、彼らの手のなかで信州と津貫の原酒が組まれて、一本の瓶に収束した結果です。
ここで効いているのは、岩井喜一郎が 1960 年に山梨石和工場で引いた ストレートヘッド型のポットスチル の設計思想の継承です。蒸気の頂部が直線的に細くなり、ラインアームが下向きで、reflux(還流、気化したアルコールが再凝縮してスティル内に戻る量)が少ない、重く油分の多いスピリッツを取りやすい形状。岩井設計の原型は Iwai Tradition と岩井喜一郎の記事 で扱いました。現在の信州蒸溜所のポットスチルは三宅製作所製で、初留器 6,000L、再留器 8,200L、ストレート型 という構成。岩井 77 歳の設計判断がスチル形状として今も生きています。
そのストレートヘッドから出てきたスピリッツが、信州の樽庫で 798m の冷涼を吸う場合と、津貫の海岸盆地で温暖湿潤を吸う場合では、抽出物濃度と酸化速度がまったく異なります。一般論として、温暖で湿度の高い環境のほうが樽呼吸(barrel breathing、温度変化による樽内の空気の出入り)が活発で、樽材のリグニン分解物やタンニンの抽出が早く進み、酸化反応も速度が上がります。一方で アルコール度数の維持 は冷涼な環境のほうが安定する。信州で 10 年熟成した原酒と、津貫で 10 年熟成した「同じ蒸留釜から出た同じスピリット」は、度数・色・抽出物濃度・酸度 のどれを取っても別物に育ちます。
そして、その別物どうしを 同じ瓶のなかで合わせる のが、ブレンダーとしての草野辰朗の仕事です。シングルモルト駒ヶ岳の現行ラインナップは複数あり、私が開けた 2024 エディションは、バーボンバレル熟成原酒をベースに、シェリーカスク、ワインカスクなど多彩な原酒をヴァッティング した 50% の限定ボトル。標準商品の シングルモルト駒ヶ岳(45%、700ml、希望小売価格約 8,800 円) は通年供給を目指して構成され、エディションごとに樽構成が更新されます。
冒頭で私が嗅いだ「干し柿を半分に切った断面」「薄く煮詰めた林檎ジャムの底」「ココナッツミルクの回り込み」は、たぶんこういう内訳です。バーボン樽(American white oak、Q. alba)から来る lactone(ココナッツ・バニラ様)と vanillin が主軸。シェリー樽からは 干し葡萄の濃縮甘み が薄く重なり、ワインカスクから 赤く煮詰めた果実の酸度 が縁取る。これらが 信州で冷涼に育った原酒(抽出物濃度は中程度、軽やかさを保つ)と、津貫で温暖湿潤に育った原酒(抽出物濃度は高く濃縮、酸化進行が早い)の対比をなだらかに繋いだブレンド として出てきます。
並べて飲むときに、何を確かめるか
価格は シングルモルト駒ヶ岳 標準ボトル(45%)が約 8,800 円、2024 エディション(50%、限定)が約 15,000-20,000 円。 海外輸出も少しずつ増えていますが、流通の中心は国内で、店舗在庫の出入りが激しい銘柄です。「希少」「限定」のラベルを乱発したくはありませんが、エディション系は 発売直後に売り切れて二次市場では希望小売価格の 1.5-2 倍 になることがあり、定価で手に入れたい場合は本坊酒造の公式通販か地元の正規取扱店を当たるのが確実です。
並べて飲むなら、対比候補は 4 本あります。
山崎 12 年 は単一気候(湿潤温暖の京都山崎)に複数スチル形状を投入する 対極設計。マルス駒ヶ岳が「同じスピリットを別気候に分散」するのと、ちょうど逆の判断です。白州 12 年 は標高 700m の森林冷涼で、駒ヶ岳と立地条件が近い ぶん、温暖熟成原酒のブレンドの効果がいちばん見えやすい。厚岸シングルモルト は亜寒帯北海道の海岸蒸留所で、気候の極端側を担う比較対象。厚岸が冷涼海岸、津貫が亜熱帯海岸、駒ヶ岳が高地内陸という 3 点測量ができます。静岡蒸溜所 Prologue K は中村大航が軽井沢蒸留所のポットスチルを買い取って再生した独立蒸溜所で、機材継承軸での対比。駒ヶ岳が岩井設計の継承なら、静岡は閉鎖蒸留所の機材継承です。系譜接続として、本坊酒造の岩井喜一郎が引いたブレンデッドの基本構成は Iwai Tradition と 内堀修身の軽井沢 もぜひ並走で。
シングルモルト駒ヶ岳を次に開けるとき、私が舌で確かめたいのは、冷涼な信州で抑えられた lactone のシャープなバニラ感 と、温暖な津貫で進んだ酸化由来のドライフルーツ寄りの円みが、どの瞬間に切り替わるか、です。グラスの最初の一口は信州側、口蓋の奥に転がしてから 10 秒経ったあとに来る厚みは津貫側、と分けて感じられたら、それは本坊修が 2009 年に再開を承認してから 15 年経った 2024 年の瓶のなかで、信州・津貫・屋久島の 3 つの気候が、草野辰朗の手のなかで一本に収束した瞬間です。岩井喜一郎が 1960 年に引いたストレートヘッドのスチルから出てきたスピリットの蒸気は、半世紀あとに駒ヶ岳の山の上で、もう半世紀あとに薩摩の海岸で、その先の屋久島の亜熱帯で、別の樽になり、別の瓶になって、私のキッチンのグラスのなかで合流していました。