厚岸シングルモルトと樋田恵一 ― 昆布を商う会社が亜寒帯にアイラを建て、二十四節気で瓶に名前をつけた決断
東京の自宅、6月の夜。窓の外は雨で、室温は22℃。グレンケアン・グラスを三脚そろえて、真ん中に厚岸のシングルモルト、左に白州12、右にLagavulin 16を、それぞれ指二本ぶん注ぎました。並べた理由は単純で、厚岸という瓶が「日本の山の酒」なのか「スコットランドの島の酒」なのか、自分の舌でどちらに寄って立っているのかを確かめたかったからです。
ノージングを始めて10秒で、答えは「どちらでもない、第三の場所にいる」だと分かりました。煙は確かにある。けれど左の白州のような森の軽い煙でもないし、右のLagavulinのような病院の消毒を思わせる重い煙でもない。潮を含んだ流木を浜辺で焚いたあとの、湿った煙に近い。
この一杯がなぜこの場所に立っているのか。それは味の偶然ではなく、一人の人間が「アイラを北海道に移植する」と決めて、設備も気候もそのために選んだ結果です。今回は技術の話に入る前に、昆布を商っていた会社の二代目がなぜ蒸溜所を建てたのか、というところから始めます。
樋田恵一、食品商社の二代目がアイラに捕まった
厚岸蒸溜所を運営する堅展実業は、1964年に設立された食品・酒類の輸入を手がける会社です。もともとはウイスキーとは縁の薄い、昆布をはじめとする食品原料を扱う商社でした。この蒸溜所の出発点にいたのは、白衣の蒸留技師ではありません。昆布を商う会社の経営者でした。
樋田恵一は1967年、千葉県松戸市の生まれ。慶應義塾大学の経済学部を出て、信託銀行に勤めたあと、1993年に堅展実業へ入り、1997年に二代目の社長になります。本人の弁によれば、ウイスキーに親しみ始めたのは30代に入ったころ。最初にアイラモルトを口にしたときは「ピートの強さに圧倒された」と語っています。普通はそこで遠ざかる味です。私も初めてLaphroaigを飲んだとき、灰皿を舐めたのかと思って二度と買わないと決めました(その三日後にまた買ったのですが)。
樋田の場合は、二度三度と飲むうちに、その押しの強さが気になって離れられなくなった。「圧倒された」を「造りたい」に変えてしまったところが、商社の二代目としては相当に振り切った判断です。経営の常識からすれば、食品輸入の会社が、十年単位で寝かせないと一円にもならない蒸留事業に手を出す理由はどこにもありません。
それでも彼は、2013年に試験熟成を始め、2016年10月に北海道の東、厚岸町に蒸溜所を稼働させました。狙いは一貫して「アイラのようなウイスキーを日本で造る」。憧れの対象を分析して、その条件を一つずつ日本の地図の上に探し直した、という移植の物語です。
なぜ厚岸だったのか ― 気候を移植する
アイラ島の酒を造るために、まず樋田が探したのは「アイラに似た土地」でした。これは思想ではなく、熟成という化学反応の前提条件を揃える話です。
厚岸町は北海道の太平洋側、霧の深い沿岸にあります。夏でも25℃前後までしか上がらず、冬は氷点下20℃近くまで下がる。そして朝夕は海霧(陸地に流れ込む海由来の霧)に包まれる。貯蔵庫の窓からは厚岸湾が見えて、湿った海の空気がそのまま樽のまわりを流れていきます。緯度こそ違いますが、低温・高湿・海のそばという条件はアイラによく似ています。

ここで本州の蒸留所と並べると差がはっきりします。白州や山崎のような本州の熟成庫は、夏に高温多湿、冬は穏やかという環境で、樽のなかの酒は比較的速いペースで木材から成分を吸い、アルコールが蒸発していきます。この蒸発分をエンジェルズシェア(天使の取り分。熟成中に揮発して失われる量)と呼びますが、本州ではこれが大きい。
厚岸はここが違います。年較差は本州より大きいのに、年間を通して気温の絶対値が低いため、樽のなかの反応は全体としてゆっくり進む。木材の抽出も、酸化も、本州勢より緩慢です。同じ三年でも、厚岸の三年と白州の三年は中身が違う。アイラとも完全には一致しません。アイラは年較差が小さく一年中ひんやり湿っているのに対し、厚岸は夏と冬で30℃以上振れる。樋田が移植したのは「アイラそのもの」ではなく、「アイラに似て、しかし日本でしか起きない熟成」だった、というのが正確なところだと思います。
ピートとミズナラ ― 忠実な模写と、日本固有の上書き
気候の次は、煙です。
厚岸の麦芽は、ノンピート・ライトピート・ヘビリーピートの三段階を使い分けています。ヘビリーは50ppm。ppmというのは、麦芽を乾燥させるときにピート(泥炭)を焚いた煙のなかのフェノール系成分が、麦芽にどれだけ吸着したかを示す数字です。50ppmという値は、アイラのLaphroaigやArdbegに正面から肩を並べる強さで、「アイラを造る」という宣言が口先だけではないことが、この数字一つで分かります。当初は輸入ピートが主体でしたが、地元・北海道産ピートの活用も進めています。
設備もアイラへの忠誠を隠していません。二基のポットスチルはスコットランドの老舗フォーサイス社製で、ストレートヘッドのオニオン型。初留器が5,000リットル、再留器が3,600リットル。ここまでは「アイラの忠実な模写」です。
その模写の上に、日本固有の上書きが一枚乗ります。ミズナラ樽です。
ミズナラ(Quercus crispula)は日本に自生するナラの一種で、ウイスキー樽材としては漏れやすく扱いにくい、職人泣かせの木です。厚岸はこれを、北海道の森の間伐材から起こして使っています。ミズナラ樽で寝かせた酒には、バニリンやラクトンといった木材由来の成分から、白檀の線香や、伽羅をくゆらせたような東洋的な香りが移る。スコットランドのバーボン樽やシェリー樽からは絶対に出ない香りです。
ここに厚岸の核があります。アイラ的なピートの煙という「西の骨格」の上に、ミズナラという「東の香り」を重ねる。煙と線香という、本来なら喧嘩しそうな二つが、一つの瓶のなかで隣り合っている。模写で終わらせず、模写の上に自分の土地の木を一枚かぶせたところが、樋田の移植が単なるコピーで終わらない理由です。
二十四節気 ― 瓶に季節の名前をつけるという一貫性
厚岸のシングルモルトとブレンデッドは、二十四節気(一年を24に分けた、立春・寒露・大寒などの季節の区切り)の名前をまとって出てきます。シングルモルトとブレンデッドを交互に、おおよそ三か月おき。一本目は2020年秋の「寒露」、55%のシングルモルトでした。
これはマーケティングの飾りではなく、設計思想の延長だと私は見ています。アイラを移植し、寒冷地で熟成させ、日本のミズナラを重ねる ― そのすべてが「日本の土地と季節のなかで酒を造る」という一本の筋に通っている。だから瓶の名前も、ブランド名や通し番号を避けて、季節そのものをまとう。中身から名前まで一貫させる律儀さが、この蒸溜所の性格をよく表しています。
正直に書いておくと、入手は楽ではありません。シングルモルトの定価はおおむね2万円台、ブレンデッドで1万円台半ばから、近年は版を重ねるごとに上がっていて、定価でも五年前の1.4〜1.5倍ほどになっています。多くは酒販店や百貨店の抽選販売で、転売市場ではさらに跳ね上がる。「いつでも棚にある」酒では、残念ながらありません。最初に一杯試すなら、シングルモルトより流通量の多いブレンデッド版や、バーで一杯だけ頼む手から入るのが現実的だと思います。北海道厚岸町のふるさと納税返礼品に入る回もあるので、定価で狙うならそこが穴場です。
飲むときに舌に届くもの
三脚のグラスに戻ります。
厚岸のシングルモルトは、ノージングでまず潮気のある煙が立ち上がります。先に書いた、浜辺で湿った流木を焚いたときの煙。そのうしろから、加水をすると白檀の線香のような乾いた甘い香りがゆっくり出てくる ― これがミズナラの仕事です。口に含むと、最初に塩気、中盤に煙、終盤にその線香様の余韻が長く残る。煙と東洋の香木が同じ一口のなかで時間差で立ち上がってくるのが、この酒のいちばんの聴きどころです。
念のため、両隣も。白州12は、同じ「ピーテッドな日本ウイスキー」のはずなのに、煙が全然違う。こちらは森のなかで枝葉を軽く燻したような、青くて軽い煙で、ミネラルや潮の感じはほとんどない。本州の高温熟成らしく、口当たりはなめらかで丸い。Lagavulin 16は逆に、潮もヨウ素も煙も厚岸より一段重く、医療用消毒を思わせるアイラ本家の貫禄があります。
三本を並べると、厚岸はちょうど真ん中ではなく、白州とLagavulinを結んだ線から少し外側、ミズナラの方向にずれた位置にいることが舌で分かります。煙の重さはLagavulin寄り、けれど線香の香りはどちらの隣人も持っていない。アイラを目指して建てたのに、出てきたのはアイラでも本州でもない第三の酒だった ― 移植というのは、たいてい狙い通りにはいかず、狙い以上のものが混ざる、ということなのだと思います。
なお、厚岸はリリースごとに樽構成が変わり、版による振れ幅が大きい酒です。ここに書いた印象は私が並べた一本のものなので、別の節気の瓶では塩気や線香の出方がかなり変わります。「いつも同じ味」を期待する酒ではなく、季節ごとに別人が来る酒だと思って付き合うのが楽しい。
次にこの瓶を開けるときに
厚岸を次に飲むときは、できれば本州のピーテッド(白州12が手頃です)を隣に並べてみてください。同じ「日本の煙の酒」が、熟成地の気温とミズナラの有無だけで、ここまで別の場所に立つことを舌で確認できます。
そして煙のうしろから線香様の香りが出てきたら、それは樋田恵一が「アイラの煙」の上に「日本のミズナラ」をもう一枚重ねると決めた、その判断が瓶の底に残っている瞬間です。昆布を商っていた会社の二代目が、圧倒された一杯を造る側に回り、霧の沿岸にスコットランドの設備を据えて、日本の森の木で仕上げた ― その一連の決断を、グラスの香りのなかで一つずつほどいていく夜が、雨の日にはちょうどいい。
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20歳未満の飲酒は法律で禁止されています。厚岸の二十四節気シリーズは抽選・限定流通が中心のため、定価入手は酒販店の抽選または北海道厚岸町のふるさと納税返礼品を確認するのが確実です。
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主な参考資料
- 厚岸蒸溜所 公式サイト「ご挨拶」: 樋田恵一がアイラモルトに「圧倒されながらも虜になった」経緯、2013年試験熟成の開始
- 厚岸蒸溜所 公式サイト「蒸溜所設備と熟成環境」: フォーサイス製ポットスチル、地元ミズナラ間伐材、海霧の熟成環境
- 日本ウイスキー情報センター(JWIC)厚岸蒸溜所詳細: スチル形状(ストレートヘッド・オニオン)、初留5,000L/再留3,600L、ラジエーター加熱、ヘビリーピート50ppm、麦芽(ロリエット/りょうふう)、樽構成、約5,800樽の貯蔵規模
- BRUTUS「北海道〈厚岸蒸溜所〉を尋ねて」: 夏約25℃/冬氷点下20℃前後の気候、海霧、寒暖差が味に寄与する点
- 堅展実業 - Wikipedia: 1964年設立、食品・酒類輸入、樋田恵一の経歴(1967年生・1993年入社・1997年社長就任)
- アルコアイランド「厚岸蒸留所 二十四節気シリーズまとめ」: 寒露(2020年10月)以降の二十四節気リリースの順序・年代・シングルモルト/ブレンデッドの別