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70年ホールドした免許 ― 笹の川酒造・山口家と安積蒸溜所が2016年に建った理由

人物
山口哲蔵笹の川酒造安積蒸溜所山桜YAMAZAKURA肥土伊知郎羽生蒸溜所Japanese whisky地ウィスキー

1946 年、福島県郡山市の日本酒蔵が、ウィスキー製造免許を国から受け取っています。前年の 1945 年に申請、敗戦直後のまだ配給制の中で、まだ多くの人が「洋酒」を飲んだことすらない時代です。寿屋(現 Suntory)が山崎で蒸留を始めてから 22 年、余市の竹鶴政孝がスコットランド帰りの技法で最初の樽を漬けてからでも 11 年しか経っていません。

この免許を取ったのは 山桜酒造合資会社(1932 年設立)、のちの 笹の川酒造 です。創業は 1765 年(明和 2 年)、200 年近い日本酒蔵。ウィスキーの経験はゼロでした。それでも彼らは免許を取り、以後 70 年間、その紙を手放しませんでした。1980 年代の地ウィスキーブームで一度大きく売り、90 年代の「冬の時代」で市場が消えてもなお持ち続け、2016 年、10 代目当主 山口哲蔵の代で、この 70 年寝かせた免許で本格モルト蒸留所を新設します。それが 安積(あさか)蒸溜所 です。ブランド名は「山桜」。免許を取った当時の屋号がそのまま残っています。

この記事は、「使う予定のない免許を 70 年ホールドし続けた」という、経営合理性でも英雄譚でもない一族の判断の構造を、瓶の中身から逆算して読みます。

笹の川酒造と安積蒸溜所のタイムライン図解。1765年(明和2)郡山移転(酒蔵の起源はさらに古く1710年宝永7年に遡る)、1932年山桜酒造合資会社設立、1946年ウィスキー免許取得・ウィスキー製造開始、1966年笹の川酒造株式会社設立、1980年代地ウィスキーブーム「北のチェリー、東の東亜、西のマルス」の一角、1989年酒税法改正で地ウィスキー冬の時代へ、2003年東亜酒造の暖簾下ろしに伴い肥土伊知郎の依頼で羽生の樽を受け入れ、2005年イチローズモルト初出荷(笹の川出荷)、2015年三宅製作所へポットスチル発注、2016年冬に安積蒸溜所として始動、2022年山桜ブランドの一部がWWAで部門賞。免許を70年ホールドした時系列を横軸で示し、寿屋山崎1923・余市1934・秩父蒸溜所2007-2008の日本ウィスキー主要年表も比較として併記した図解。

1946 年、日本酒蔵がウィスキー免許を取った理由

1945 年の敗戦直後、日本の酒類業界は完全な統制下にありました。米の配給、酒類の割当、公定価格。日本酒だけを作っていた蔵は、原料米の供給が絞られ、事業を維持することそれ自体が難題だった時代です。

そこに、当時の当主 ― のちに笹の川酒造株式会社へ改組することになる山口家の先代 ― は、ウィスキー製造の免許を申請します。国税庁の許可は翌 1946 年に降りました。理由は資料に断片しか残っていませんが、複数の証言と業界誌の記述を突き合わせると、動機は「洋酒事業に賭ける」というより「酒造りの手段を絞らないでおく」に近い。清酒の統制が読めないから、統制の外側にある酒種の免許を押さえておく。統制下の日本酒蔵にとって、免許とは「作るための権利」であると同時に「作らなくてよくなったときに逃げるための出口」でもありました。

ここで「戦後の混乱の中でもウィスキーの未来を見抜いた慧眼」と書きたくなります。私は抑えます。実際の判断は、もっと商人的で、もっと保守的だった可能性が高い。1946 年の申請は、先を読んだ賭けではなく、選択肢を捨てないための保険として取られた免許です。この読み方は、山口家を貶めるものではありません。むしろ、あとに続く「70 年ホールド」の判断を理解するためにこそ必要な視点です。賭けていない免許は、手放す動機も薄い。

同じ 1946 年前後には、他にも多くの地方酒造家がウィスキー免許を取っています。ほとんどは 90 年代の冬の時代を越えられずに免許を返上したり、放置したりしました。笹の川はそうしなかった。なぜかを、次の 40 年で見ていきます。

「北のチェリー、東の東亜、西のマルス」の時代

1946 年に免許を取った笹の川は、戦後の需要拡大に乗って地ウィスキーの製造を伸ばしていきます。看板商品は「チェリーウイスキー」。派手なフルーツ由来の名前ではなく、桜(山桜)にちなんだ命名です。

1980 年前後、地ウィスキーが最盛期を迎えた時期には、業界内で「北のチェリー、東の東亜、西のマルス」という三強の呼び方がありました。東の東亜 とは埼玉の東亜酒造(羽生蒸溜所)、西のマルス は本坊酒造のマルス信州蒸溜所、そして 北のチェリー が笹の川のチェリーウイスキーです。この一群の呼称は WHISKY Magazine Japan の記事にも記録があります。

この時期、笹の川は地ウィスキーの一角として全国に知られる存在でした。売れて、儲かって、蔵の主力商材のひとつになった。ここで書きたくなるのは「1946 年の免許は正解だった」という綺麗な因果ですが、これも留保が要ります。1980 年代の地ウィスキーブームは、原酒を大量ブレンドして安価に売る「三級ウィスキー」の市場です。100% モルトの本格蒸留に踏み込んだ蔵ではなく、多くはブレンドと詰め替えで回っていた。笹の川もその生態系の中にいました。免許を取ったのは正解でしたが、それは「本格モルトの先駆者になった」という意味ではなく、「戦後の需要拡大期に、洋酒という選択肢を持っていた蔵は生き残った」という程度の話です。

そして、この生態系ごと、次の 10 年で消えます。

冬の時代 ― 免許を捨てなかった判断

1989 年の酒税法改正で、それまで等級(特級・一級・二級)で守られていたウィスキーの価格構造が壊れました。関税引き下げ、円高、そして「ワインブーム」「焼酎ブーム」の波及で、国産ウィスキーの需要は 90 年代を通じて崩落していきます。業界全体の消費量は 1983 年のピークから 2008 年までに約 5 分の 1 に落ちた、と後年の資料は記録します。これが「冬の時代」です。

このとき、地方の中小地ウィスキー蔵の多くは、免許を返上するか、事実上休眠状態に入るかの選択を迫られました。「東の東亜」だった東亜酒造は 2000 年に羽生蒸溜所を稼働停止、2004 年に会社そのものが再編されます。「西のマルス」のマルス信州蒸溜所も 1992 年に一度稼働停止、以後 2011 年まで 19 年間止まったままでした(マルスの再稼働については マルス信州とマルス津貫の二拠点熟成 を参照)。

笹の川もチェリーウイスキーの売上が激減し、日本酒と焼酎に軸足を戻します。ここで免許を返上する経営判断はありえた。むしろ、免許維持コストと、稼働していない蒸留設備の保有コストを考えれば、返すのが「合理的」だったはずです。

しかし山口家はそうしませんでした。

免許を保持し続けた明確な理由の記録は、私が調べた範囲では公式には残っていません。残っている断片は、「祖父が取った免許を、自分の代で捨てるわけにはいかない」という趣旨の、山口家の口伝に近いニュアンスの証言だけです。経営合理性でもマーケット予測でもなく、継承の判断。使うあてがなくとも、返さない。

ソフトウェア事業に喩えるなら、「使う予定のない SaaS のアカウントを 70 年更新し続ける」ような判断です。会計上は費用でしかありません。誰も評価しません。ROI もマイナスです。ただし、そのオプションが突然 in-the-money になる日が来たとき、免許を持っている蔵と持っていない蔵の間には、埋めようのない差が生じます。

笹の川は、その差の側に立ちました。

2003 年、他人の樽を預かるという判断

1990 年代を静かにやり過ごしていた笹の川に、2003 年、思いがけない依頼が舞い込みます。羽生蒸溜所を持つ東亜酒造が暖簾を下ろすことになり、原酒樽が廃棄されかけている(羽生蒸溜所自体の稼働は 2000 年に止まっており、以後の会社再編で樽が行き場を失いかけていました)。それを何とか救えないか、という相談でした。

依頼主は、東亜酒造 21 代目の後継者で、羽生蒸溜所の閉鎖に立ち会った 肥土伊知郎(あくと・いちろう) です(2001 年から東亜酒造の代表を務めていた時期にあたります)。羽生の熟成庫にあった 400 樽近い原酒は、廃棄予定でした。肥土は各地の蔵を回って引き取り先を探し、最終的に 福島の笹の川酒造が熟成庫を貸すことに同意した、という経緯が Wikipedia と業界資料に残っています。

このとき、笹の川が持っていたのは 稼働していない地ウィスキーの免許と、動いていた日本酒蔵の熟成環境 です。ウィスキーを作ってはいなかったが、熟成させることはできた。もし笹の川がバブル期に免許を返していたら、この受け入れはもっと複雑な手続きを要した ― あるいは断らざるをえなかった可能性が高い。「使っていない免許」があったから、羽生の樽を預かる資格があった

2005 年、笹の川に預けられた羽生の樽から、「イチローズモルト」 ブランドが最初にリリースされます。ボトルには「福島 笹の川酒造」の名前が入りました。その 2 年後の 2007 年、肥土は自身の蒸留所として 秩父蒸溜所 を建設し、翌 2008 年 2 月に初蒸留を行います(秩父の発酵設計については イチローズモルト秩父の木製ウォッシュバックとミズナラ樽 を参照)。羽生の樽は、笹の川という「北のチェリー」の熟成庫を経由して、秩父の「イチローズモルト」という次世代ブランドへ渡っていったことになります。

ここで山口家に何か派手なリターンがあったわけではありません。樽の保管料以上のものを、笹の川は羽生の一件で得ていません。ただ、10 年後にこの「貸し」は返ってきます。

2016 年、70 年寝かせた免許で蒸留所を建てる

2013 年前後から、ジャパニーズウィスキーの世界的な再ブームが始まります。山崎の熟成年数付き、白州、余市、竹鶴、そして秩父。海外オークションで日本のウィスキーが記録的な値で落札されるようになり、国内でも需要が急拡大します。

このとき、1946 年に取った免許を捨てずに持ち続けていた蔵は、日本にほとんど残っていませんでした。ほとんどの地ウィスキー蔵は 90 年代に諦めていた。笹の川の 70 年ホールドが、資産に変わった瞬間 です。

10 代目当主 山口哲蔵(笹の川の創業者 朝之丞宗友から数えて 10 代目)は、2015 年、本格的なモルト蒸留所の新設を決めます。設備は 三宅製作所 に発注しました。三宅製作所は江井ヶ嶋(卜部兵吉と 1919 年の免許 を参照)のポットスチルも手がける国内の蒸留機メーカーで、注文から 1 年以内に納品可能 という判断が採用の決め手のひとつだったと業界誌は伝えます。

据え付けられたのは 初留 2000L、再留 1000L の間接加熱ストレートヘッド型ポットスチル 2 基。原料の大麦麦芽は主に英国クリスプ社製で、ノンピートと ヘビーピート(50ppm) を軸に複数のフェノールレベルを作り分ける仕様です。仕込み水は磐梯朝日国立公園に連なる水系。創業の地から移築された伝統的な土蔵建築の一角を改修し、2016 年冬に「安積蒸溜所」として始動(同年 12 月末から翌 2017 年初頭にかけて初蒸留・初ボトリングが行われたと伝えられます) ― 70 年寝かせた免許から、実際に一滴のスピリッツが流れた瞬間です。

蒸留所の名前は 安積蒸溜所。「安積(あさか)」は郡山周辺の古い在来地名で、明治期には不毛の安積原野に猪苗代湖から水を引く安積疏水事業(日本初の国直轄農業水利事業)がこの地名を冠して行われました。この命名も、免許のホールドと同じく、地元の継承の側に軸足を置いた選択でした。

借りは、貸した相手が別の姿で返してくる

2016 年の安積蒸溜所立ち上げに、肥土伊知郎が技術指導で入っています。肥土は 2013 年前後から日本各地の新興蒸留所の立ち上げを手伝う立場になっており、安積もその一つでしたが、笹の川に対しては特別な位置づけだったはずです。2003 年、羽生の樽を引き取ってもらった相手 ― その熟成庫のおかげで「イチローズモルト」というブランドを始められた相手 が、13 年後、自分たちが蒸留所を建てるとなったとき、技術指導を求めてきた。断る選択肢はなかったでしょう。

WHISKY Magazine Japan は、肥土が 秩父から郡山まで何度も足を運んだ と記録しています。距離にして片道およそ 300km 前後を、蒸留立ち上げの試行錯誤の時期に繰り返し通ったことになります。

貸しは、貸した相手からではなく、貸した相手が別の場所で成長した姿として返ってくる ― 2003 年に樽を預かるという地味な判断をした山口家は、そのとき、13 年後の技術指導を取り立てる契約書を書いていたわけではありません。書いていなかったからこそ、返ってきた。もし契約で縛っていたら、これは「取引」で終わっていました。

このネットワーク的な循環は、笹の川に固有の話ではありません。佐々木雅晴の遊佐蒸溜所 は焼酎蔵からの転身組ですし(佐々木雅晴と遊佐蒸溜所の焼酎からシングルモルトへの転身 を参照)、厚岸の樋田恵一 は 2013 年頃から北海道でアイラ型を目指して立ち上げた別系統です(厚岸と樋田恵一のケルプと二十四節季 を参照)。ジャパニーズウィスキー第三波と呼ばれる 2013 年以降の新興蒸留所群は、こういう「昔の判断が別の場所で花を開く」パターンを、それぞれ違う形で持っています

安積蒸溜所は 2022 年、山桜ブランドの一部で World Whiskies Awards の部門賞を獲得しました。1946 年に免許を取った先代は、当然この受賞を見ていません。1980 年代のチェリーウイスキーで蔵を支えた世代も、多くはすでにこの世にいません。70 年ホールドされた免許で、10 代目が立ち上げた蒸留所が、11 代目・12 代目に手渡される ― この時間の長さこそが、この蔵の背骨です。

それでも、私が気をつけていること

山口家の 70 年ホールドを、私は「継承の勝利」として書きすぎないよう気をつけました。もし 2013 年以降のジャパニーズウィスキー再ブームが来なかったら、この免許は永遠に「使わない資産」のままだったはずです。そして、それでも良かった

山口家が免許を持ち続けたのは、再ブームを予見していたからではありません。「祖父が取ったものを、自分の代で返さない」という、経営書には書けない種類の判断です。この判断は、市場が報いてくれなかったとしても、山口家の内部では意味を持ち続けたはずです。運が良かったから正解に見えているだけで、運が悪かったら「非合理な保守」と呼ばれていたでしょう。

安積蒸溜所のニューポットを飲むとき、私はこの「たまたま報われた 70 年」の重さを、ラベルの向こう側で計算しなおします。瓶に入っているのは 2016 年以降に蒸留されたスピリッツで、まだ若い。しかし、そのスピリッツが存在するために必要だった判断の連鎖は、1946 年から 70 年、10 代の当主を跨いで続いてきたものです。

免許は、書類上は紙一枚です。ただ、70 年ホールドされた紙一枚は、もはや紙ではありません

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よくある質問

笹の川酒造がウィスキー免許を取得したのはいつですか?
1945年に申請、1946年(昭和21年)に許可が下り、前身の山桜酒造時代からウィスキー製造を開始しました。免許取得は寿屋(現Suntory)の山崎蒸留の1923年、余市の1934年から数十年後の戦後直後のことです。
安積蒸溜所のポットスチルはどこ製ですか?
三宅製作所製の間接加熱ストレートヘッド型で、初留2000L・再留1000Lの2基構成です。2015年に発注、2016年11月に酒蔵を改修して据え付けられました。
笹の川酒造と羽生蒸溜所・イチローズモルトはどう関係していますか?
2003年、羽生蒸溜所を持つ東亜酒造が経営再編で暖簾を下ろし、原酒樽が廃棄されかけた際、笹の川酒造が肥土伊知郎の依頼で樽を熟成庫に受け入れました(羽生蒸溜所自体の稼働停止は 2000 年)。この樽から2005年にイチローズモルトが初出荷され、その恩返しとして肥土氏は2016年の安積蒸溜所立ち上げに技術指導で入っています。