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肥土伊知郎 ― 父が閉じた羽生400樽と秩父蒸溜所を建てるまでの8年

人物
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2000年に父が羽生蒸溜所を閉じたとき、息子はまだ35歳でした。

父の言葉は、若い頃から一貫していたそうです。「戻ってこないつもりで仕事しろ」。家業の外で身を立てろ、という意味です。息子はその通り、大学を出て大手のウィスキー会社に営業として入り、外で数字を作っていた。ところが29歳のとき、家業の経営が傾いた父から呼び戻され、実家に戻ります。

戻ってから数年後、父はウィスキー製造を止める判断をしました。清酒と焼酎は別資本に売られて存続します。残ったのは、1980年から20年間かけて樽詰めされた約400樽のモルト原酒。新しい所有者にとっては稼働していない蒸溜所と、何にもならない樽の山でした。

3年後、当時40歳前になっていた息子は、退職金と借金でその400樽を自費で買い戻します。埼玉から福島県郡山まで運び、笹の川酒造という別の会社の倉庫を借りて保管しました。その後8年かけて、樽を少しずつ瓶詰めして売り、その現金で秩父の山あいに新しい蒸溜所を建てます。

肥土伊知郎の話は、この2000年から2008年までの8年間の話です。

羽生から秩父への8年間の年表。2000年に父が羽生蒸溜所を閉鎖。2003-2004年に肥土伊知郎が約400樽を自費救出し福島県郡山の笹の川酒造倉庫へ移送。2004年にベンチャーウイスキー設立。2005年からIchiro's Malt Hanyu Card Seriesを段階リリース、2014年まで全54種。2007年に秩父市で蒸溜所建設開始、2008年2月に初蒸留、2011年にChichibu The First発売。同時期の世界的な動きとしてKilchoman蒸留所が2005年にIslayで稼働開始、farm distillery revival の日本版として位置付けられる。

「戻ってこないつもりで仕事しろ」と言った父

東亜酒造は、1625年に埼玉県北部で創業した清酒蔵です。肥土伊知郎はその21代目にあたります。ウィスキーは家業の主軸ではなく、戦後に付け足された事業でした。祖父の代で1946年にウイスキー製造免許を取得し、1980年から羽生の敷地内でスコッチ式のモルト蒸留を独立に走らせるようになりました。約20年間、羽生は日本の地方蒸留所として静かに稼働を続けます。

伊知郎自身は、家業を継ぐ気で育ったわけではなかったようです。父の口癖は「戻ってこないつもりで仕事しろ」でした。息子は大学卒業後に大手のウィスキー会社に営業として入社し、そのまま定年まで勤め上げるつもりで働いていたと本人が語っています。「戻ってこないつもりで仕事しろ」は、家業への忠誠を強要しない父親としては珍しい種類の言葉です。私はこの一文だけで、この父子の関係に半分くらい入っていける気がします。

呼び戻されたのは29歳のとき。1990年代半ばの日本ウィスキー市場は、山崎の年数表示が徐々に消えていく、いわゆる冬の時代の入り口でした。父の会社は経営が傾いていて、家業を手伝ってくれと言われた。営業として外で数字を出せていた30手前の男が、傾き始めた実家に呼び戻される。悪いストーリー展開の教科書のような立ち上がりです。

補足として、Ichiro’s Malt という銘柄そのものを瓶単位で追った記事は別に書いています。手元のグラスで確かめられる部分を含めて読みたい方は、Ichiro’s Malt と Chichibu ミズナラの記事 を参照してください。本記事はあくまで人物軸で、2000年から2008年の8年間を切り出します。

2000年、父が閉じた蒸溜所

戻ってから数年、経営再建の中で、父は最終的にウィスキー製造を止める判断を下しました。2000年のことです。

この判断を、私はまず父の側に立って読みたい。1990年代後半のジャパニーズウィスキー市場は、Suntory の主力銘柄ですら年数表示を落とし始めるほど需要が縮小していました。輸入スコッチも安く、ハイボール文化が定着する前で、若い世代は焼酎とサワーに流れていた。地方の中規模蒸溜所が、20年物のスコッチ式モルトを在庫として抱え続けることに、経済的な合理性はなかったのです。焼酎と清酒を残してウィスキーを畳むという父の判断は、貸借対照表を見ながら下すには、むしろ堅い経営判断でした。

問題は、残された400樽のほうです。

会社そのものは清酒・焼酎事業ごと別資本に譲渡され、新しい所有者は焼酎で回収する計画を立てていました。ウィスキー原酒は彼らの計画のなかに位置を持たない。倉庫代を発生させる棚卸資産で、放出できるうちに放出したい対象でした。時期を待たずに、樽ごと安く売って処分するか、極端な場合は中身を廃棄することも選択肢に入っていたようです。

ここで中盤の一つ目の deflation を置いておきます。**父が焼酎に転換した判断は、経営的にはおそらく正しかった。息子が3年後に400樽を自費で買い戻した判断は、経営的にはほぼ狂気でした。**当時の日本のシングルモルトに、20年物の地方原酒を1本1万円以上で買う二次市場は成立していません。3年後に破綻するはずの数字だった。それが破綻しなかったのは、後から振り返って「奇跡」と呼ばれることの多い、要するに再現性のない事象です。

2003-2004年 400樽の物理的な救出

400樽を個人で引き受ける、というのは書いてしまえば1行の話ですが、物理的な作業としては相当に面倒な仕事です。

まず、樽の所有権をどの主体で引き取るかを決めなくてはならない。家族の名前で買うのか、法人を立てるのか。伊知郎はまず樽の買い取りを個人で決断し、その後2004年にベンチャーウイスキー株式会社を設立して法人化しました。買い取りの資金は退職金と借金で作ったと本人が複数のインタビューで語っています。

次に、樽をどこに置くかです。羽生蒸溜所の倉庫は、旧親会社の別資本のもとにあります。動かさなければ処分される。動かすためには受け入れ倉庫が要る。伊知郎は福島県郡山の笹の川酒造の代表に頭を下げ、倉庫を借りる話をまとめました。埼玉の羽生から福島の郡山まで、樽をトラックで運びます。約400樽。1樽あたり200リットル前後のバレルを混ぜたと仮定しても、40フィートコンテナで数十台分の物量です。

笹の川酒造は、それ自体が戦後のジャパニーズウィスキー小史の一部を担った、地方の蒸留会社です。伊知郎はここに樽を預けるだけでなく、以降、技術顧問として定期的に通うようになります。1980年代の羽生の樽が、2000年代の福島の湿った倉庫の中で、別会社の職人と伊知郎自身の手で再検品されて、後年の Ichiro’s Malt シリーズの原酒プールになっていきました。

ちなみに、家業ではない土地に単身で新しい蒸留を持ち込むという判断そのものは、日本のウィスキー史では珍しいものではありません。北海道余市で竹鶴政孝が独立起業したときも、それに近い判断でした。世代とスケールは違いますが、思想の系譜としては近い。関心があれば 竹鶴政孝の Scotland ノート の記事に、その70年前の版があります。

Card Series の8年 ― ブレンダー修行と現金繰り

救出した樽は、そのまま寝かせておいても現金にはなりません。2004年設立の会社には社員も設備も少なく、Chichibu 蒸溜所建設のプロジェクト費用は、この400樽から作るしかありませんでした。

翌2005年、伊知郎は Ichiro’s Malt Hanyu Card Series の第一弾をリリースします。トランプの絵柄をモチーフに、樽ごとの個性を残したシングルカスクを54種類(ジョーカー2種を含む)に分けて瓶詰めする、というシリーズです。2005年から2014年までの約9年間かけて、段階的に全54種が世に出ました。

この設計を「洒落たマーケティング」だけの話に回収してしまうと、いちばん大事なところを取り逃します。**一度に放出すれば値崩れするから54枚に分割した。トランプにしたのはコレクター心理を設計に組み込むため。**これは単なる商品企画ではなく、樽の在庫を8年間の資金源として単利で回すための cash flow スケジューリングです。9年で54回に分けたリリースは、月あたり半瓶ペースで現金が入ってくる設計と読むこともできる。

同時に、Card Series はブレンダー未経験だった伊知郎自身の学習の場でもあったはずです。1樽ごとに個性の違う 1980年代-90年代の羽生原酒を、それぞれ独立に瓶詰めできる形へ整えていく作業は、シングルカスクという名の巨大な感覚データセットを毎月更新していくのに近い。8年間で54回、彼は自分の設計した瓶を市場に投げ、感想を回収し、次のカードに反映していきました。2008年に秩父の初蒸留が始まってからも、Card Series は継続されました。羽生の樽が生計を立て、その現金で秩父を建てた、というのは要約としては正しいのですが、そのあいだにブレンダーとしての伊知郎自身が育っていった、という並行過程を落とさないでおきたい。

なお「閉鎖された日本の蒸留所の樽が、別の担い手の手で20年後に世界に届く」という現象そのものは、伊知郎が唯一の例ではありません。長野県軽井沢の蒸留所を最後まで守った 内堀修身と軽井沢の Golden Promise の記事に、11年遅れの別の版があります。

2008年、秩父蒸溜所の稼働 ― Kilchoman との同期

2008年2月、埼玉県秩父市にベンチャーウイスキー株式会社の秩父蒸溜所が稼働しました。羽生の閉鎖から数えて8年後、Card Series の初リリースから3年後です。

設計は極めて意図的に「小規模」です。スコットランドの Forsyths coppersmith 社から輸入したポットスチル2基は、初溜約2000リットル、再溜約1000リットルという、大手蒸留所の1/10以下のサイズ。年間の純アルコール生産能力は当初およそ50,000リットル前後で、Suntory 山崎の数十分の一です。設備の中には木製のマッシュタンや、ミズナラ材のウォッシュバックも並び、フロアモルティングの実験区画まで用意されました。技術的な深掘りは ミズナラ washback と乳酸菌発酵の記事 に譲ります。

秩父の位置を世界的な文脈に置くと、時代性がよく見えます。Chichibu が動き出した2008年の3年前、2005年に、スコットランドの Islay で Kilchoman という農場付きの小規模蒸留所が Anthony Wills の手で稼働しています。Kilchoman は「Islay で125年ぶりの新設蒸留所」として語られる、post-2005 の farm distillery revival の1番手でした。同じ Forsyths のスチルを使い、同じくらいの小さなスケールで、同じように農場の脇に建てられた蒸留所です。

2005年 Kilchoman、2008年 Chichibu。この2つの蒸留所は、経営主体も国も違いますが、大手の外側で small independent が農場サイズで蒸留を立ち上げるという2000年代後半の世界的な流れの、Islay 支部と Japan 支部として並んで位置します。この文脈で秩父を読むと、伊知郎の判断は「日本ウィスキー冬の時代の孤独な奇跡」ではなく、「世界的な farm distillery 復活期の一環としての日本版」だと分かる。孤独ではなかったのです。

こうした「地方の家業を継いだ人間が、シングルモルトの蒸留所を新しく建てる」というモデルは、その後の日本のクラフト蒸留所群に直接引き継がれていきました。焼酎メーカーがシングルモルトに転じた 佐々木雅晴と遊佐蒸溜所 はその代表例です。2008年秩父の設計は、10年後の遊佐や、地方の同世代の蒸留所群の設計に、直接見て取れる祖型を残しています。

父と息子の8年

2000年に閉じた父と、2008年に稼働させた息子。その8年間を、単純な「失敗した父 vs 成功した息子」の物語に読むのは、まず不誠実だと思います。

父の判断は、1990年代末の経営環境と、清酒・焼酎を含む会社全体の存続を天秤にかけた上での、経営者としての合理的な選択でした。息子の判断は、その合理性の外側で、家族の40年分の樽詰めを「棚卸資産」として処分させない、という非経済的な軸で下されたものです。8年間の話は、父の合理性と息子の非合理性が並走した8年間であり、どちらが正しかったかを勝敗表に整理するような話ではありません。

そして終盤の pathos を、静かに置いておきます。

**父は、息子が救った樽から瓶詰めされた Hanyu の Card Series を、いくつか実際に飲んで逝きました。**羽生の樽がトランプの絵柄で世界を回っているのを見て逝きました。父が閉鎖を決めた蒸留所の原酒が、息子の手で20年かけて世界のオークションカタログに並んでいく過程を、途中まで見ることができたのです。父が閉じてから26年、息子が救ってから約23年が過ぎた2026年、秩父の spirit のうち初期ロットは18年目に入り、そろそろ age-stated 18年の瓶詰めが視野に入る時期に来ています。父が閉じた蒸留所の樽と、息子が建てた蒸留所の18年物が、いずれ同じ棚に並ぶことになる。8年間の話は、まだ終わっていません。

私は Ichiro’s Malt Card Series を1枚も持っていません。私が買える価格帯を通り過ぎた頃には、あれは「投資対象」でした。だから肥土伊知郎の話を書くとき、私は飲んだ側ではなく、飲まなかった側から書いています。それでもこの8年間の判断のディテールは、瓶を持っている人にも、持っていない私のような読者にも、共有される価値のある種類の話だと思います。息子が父の樽を捨てさせなかった8年間の話は、飲まなくても手が届く場所にあります。


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主な参考資料

よくある質問

肥土伊知郎とはどのような人物ですか?
肥土伊知郎は1965年に埼玉県秩父市で生まれた蒸溜所経営者です。江戸時代から 続く清酒蔵・東亜酒造の21代目にあたり、家業のウィスキー製造が2000年に 停止した後、残されていた羽生蒸溜所の原酒約400樽を個人で買い戻し、 2004年にベンチャーウイスキー株式会社を設立、2008年に秩父蒸溜所を 稼働させました。
羽生蒸溜所はなぜ閉鎖されたのですか?
東亜酒造は1946年にウイスキー製造免許を取得し、1980年から約20年間、 羽生蒸溜所で自社蒸留を続けました。しかし1990年代のジャパニーズ ウィスキー市場低迷と経営悪化を受けて2000年に稼働を停止しました。 清酒・焼酎の事業は別資本のもとで存続しましたが、ウィスキー設備は 2004年に解体されています。
秩父蒸溜所はいつから稼働していますか?
秩父蒸溜所は埼玉県秩父市で2008年2月に初蒸留を行いました。 スコットランドのフォーサイス社製のポットスチル2基(初溜2000L、 再溜1000L)を輸入した小規模なファームディスティラリー型で、 Mars 信州(1985年再開)以来、日本国内でおよそ23年ぶりの新設 スコッチ式モルト蒸留所となりました。2019年には第二蒸留所も稼働しています。