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卜部兵吉と1919年の免許 ― 日本で一番早くウィスキーを作る許可を取って、一番無名であり続けた明石の蔵の決断

人物
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日本で最初にウィスキーの製造免許を取った蔵の名前を、ほとんどの人は言えません。私も長いあいだ言えませんでした。山崎の鳥井信治郎、余市の竹鶴政孝 ― その二人の手前に、もう一枚だけ古い免許状があったことを、ジャパニーズウィスキーの年表はあまり大きな声で語らないからです。

その免許状の日付は 1919 年(大正 8 年)。場所は兵庫県明石、瀬戸内に面した「西灘」と呼ばれる酒どころの一角です。寿屋(現 Suntory)が山崎で蒸留を始める 1923 年より 4 年早く、竹鶴の余市(1934 年)より 15 年早い。数字の上では、これは「日本ウィスキーの最初の合法生産者の一人」の記録です。蔵の名は 江井ヶ嶋酒造。ブランドは「ホワイトオーク」、いまは「あかし(AKASHI)」と呼ばれています。

そして、この記事の主役である 卜部兵吉(うらべ・ひょうきち) は、その免許を取った当の人物でありながら、自分の蔵をジャパニーズウィスキーの主役にしようとは、ついにしませんでした。一番早く許可を取って、一番無名であり続けた。この皮肉の構造を、瓶の中身と一人の蔵元の決断から逆算して読みます。

江井ヶ嶋酒造と卜部家のタイムライン。1853年卜部兵吉誕生、1873年21歳で分家独立、1888年27軒の酒造家に株式会社設立を説いて江井ヶ嶋酒造創立、1895年清酒「神鷹」商標登録・全国4位の石高、1899年自社ガラス瓶工場併設、1919年ウィスキー製造免許取得(山崎1923より4年早い)・蒸留工場竣工・ホワイトオーク発売、1926年兵吉74歳で逝去・三代目卜部退三が大不況に直面、1931年地元市場開拓へ転換、1984年スコットランド様式の新蒸留所竣工、2007年初のシングルモルト「あかし」リリース、2019年三宅製作所製ポットスチル2基(初留5000L・再留3000L)新調という流れを横軸の年表で示し、賭けた山崎(1923)・余市(1934)との前後関係を併記した図解。

「くらがりの兵吉つぁん」が株式会社を作るまで

卜部兵吉は 1853 年(嘉永 6 年)、明石・江井ヶ嶋の旧家卜部家に生まれました。地酒蔵元会に残る蔵元紀行によれば、控えめな性格で「くらがりの兵吉つぁん」と呼ばれていたといいます。目立たない、自分から前に出ない。けれど内には負けん気と辛抱強さを秘めていた、という人物評です。

この性格の素描は、後の 1919 年の決断を読むうえで効いてきます。彼は神戸の明親館で学び、福沢諭吉の授業も受けたと記録される、当時の地方酒造家としては破格に近代教育を受けた人物でした。国学・漢学・洋学を修めて 1873 年、21 歳で分家独立します。

そして近代学問で身につけた合理性が、彼を一つの確信へ導きます。小規模な酒造家は、このままばらばらでは立ち行かない。統合し、株式会社にすべきだ ― 簿記会計に精通していた兵吉は、1888 年、27 軒の酒造家を招いて株式会社の有利性を説きました。個人酒造家の抵抗は強かったといいます。結局、兄弟・縁者 5 人の資本金 3 万円で江井ヶ嶋酒造株式会社を設立する。1895 年の時点で全国の株式会社が僅か 2 軒しかなかった時代の話です。

ここで「兵吉は時代を先取りした天才経営者だった」と書きたくなります。が、留保します。彼が株式会社化を急いだのは、ビジョンというより生き残りの算段だった面が大きい。近代化の波で淘汰されかねない小蔵が、組織として固まることで生き延びる ― この「賭けずに、固まって、残る」という思考の癖が、兵吉という人物の背骨です。1919 年の免許も、この背骨の延長線上にあります。

1919 年、蒸留器のない蔵が取った免許

兵吉の経営判断は、清酒「神鷹」(1895 年商標登録、全国 4 位の石高)を主軸に据えながら、執拗に多角化していくものでした。1897 年にパリ万博出展とハワイ輸出、1899 年には業界初の自社ガラス瓶工場併設(模造品対策のため)、1912 年に朝鮮・京城へ出店。「自社内で造り出す」を徹底するモットーの人でした。

その多角化の一環として、1919 年、蒸留酒工場を竣工し、白玉焼酎・ホワイトオークウイスキー・シャルマンブランデー・白玉ホワイトワインの製造を始めます。免許取得もこの年。山崎より 4 年早い「日本ウィスキー最初の合法生産者の一人」という記録は、ここで生まれました。

ところが ― ここがこの蔵のいちばん正直で、いちばん語られにくいところです。1919 年の時点で、江井ヶ嶋酒造にはポットスチルが無かった。ジャパニーズウイスキーインフォメーションセンター(JWIC)の蒸留所紹介も、WHISKY Magazine Japan の記述も、この時期の生産実態を「謎の部分も大きい」と明記しています。蒸留器がないのにウィスキーを作っていた、というのは矛盾です。最も蓋然性が高い説明は、輸入したウィスキー原酒を瓶詰めして「ホワイトオーク」として売っていた というもの。WHISKY Magazine Japan も、当初は輸入ウィスキーの需要拡大を受けて免許を取り、地ウィスキー製造へ「転換」していったと書いています。

つまり、「日本で一番早くウィスキー免許を取った」という栄えある一行の実態は、自前のスチルで蒸留した一滴があったわけではなく、ビジネスチャンスを逃さないために、とりあえず免許という権利を押さえておいた という、きわめて商人的な判断だった可能性が高い。ここで私は、兵吉が天才的な蒸留の先覚者だったと書きたい欲求を、もう一度抑えます。実際の彼は、輸入酒の詰め替えから入った、抜け目のない多角経営者です。免許は理想ではなく、ポートフォリオの一枠でした。

この読み方は、兵吉を貶めるものではありません。むしろ彼の決断の本質を正確に捉えるためのものです。彼はウィスキーに人生を賭けていない。賭けていないからこそ、免許を早く取れた ― 失うものが少なければ、新しい権利を試しに取っておくコストは小さい。鳥井信治郎が山崎にすべてを注ぎ込み、竹鶴政孝が余市で人生を賭けたのとは、決断の質量がまるで違います。

賭けなかった、という決断

ここに、この蔵を語るうえで避けて通れないトレードオフがあります。

兵吉は、ウィスキーへ全資源を投じませんでした。本業はあくまで清酒・焼酎・みりんで、ウィスキー・ブランデー・ワインは「自社で何でも造る」という総合酒類路線の枝の一本にすぎなかった。山崎のように専用の本格モルト蒸留所を建てるのは、それから 65 年後の 1984 年まで待たねばなりません。

この「賭けなかった」決断は、二通りに読めます。一つは臆病。先行者の地位を持ちながら、それを商業的なリードに変える胆力がなかった、という読み方。もう一つは堅実。本業の足腰を崩してまで投機的なウィスキーに賭けず、蔵そのものを存続させた、という読み方。私はどちらが正解とも書きません。書けないのです。なぜなら、この決断の正否は、半世紀以上あとの市場が決めることで、当時の兵吉には知りようがなかったから。

兵吉は 1926 年、74 歳で世を去ります。その直後から日本経済は深刻な不況に突入しました。蔵を継いだ三代目・卜部退三(うらべ・たいぞう) は、経費削減と全員の減俸、古酒の早急な処分、不動産の原価償却で難局を耐え、1931 年から地元市場の開拓へ舵を切ります。この時期に退三がやったのは、新規事業への投機ではなく、手元にあるものを守り抜く防御戦でした。

ここで 賭けて消えた軽井沢 を思い出します。メルシャン軽井沢は Golden Promise 100% とオロロソシェリーで重厚な長熟原酒を作り、商業的には売れず、2000 年に生産を止め、解体され、いまオークションで億単位の値を付けている。賭けて、消えて、死後に評価された蒸留所です。江井ヶ嶋はその対極にいます。賭けず、無名のまま、ただ生き残った。軽井沢の物語が pathos に満ちているのは、それが「失われた」からです。明石の物語が静かなのは、それが「失われなかった」からです。失われなかったものは、ニュースにならない。

本坊酒造の Mars Whisky もまた、19 年の休止を経て戻ってきた地方蔵でした。けれど本坊には岩井喜一郎という、竹鶴ノートを受け取った設計者の系譜がある。江井ヶ嶋にはそういう華のある一人がいない。設計の英雄も、悲劇の英雄もいない蔵。いるのは、賭けずに固まって残ることを選び続けた卜部家の、几帳面な商人たちだけです。

1984 年、ようやく本物のスチルが来る

江井ヶ嶋がスコットランド様式の本格的なモルト蒸留所を建てたのは、免許取得から 65 年後の 1984 年でした。地ウィスキーブームの追い風があった時代です。小規模ながらモルト原酒のみにこだわった蒸留所で、ポットスチル 2 基、ステンレス製ウォッシュバック 4 基、ラック式の熟成庫 1 棟という、慎ましい構成。

現在のスチルは 2019 年に三宅製作所製で新調された 2 基で、初留器 5,000 リットル、再留器 3,000 リットルのストレート型。シェル&チューブ式のコンデンサーが太いのが特徴です。仕込みはワンバッチ麦芽 1 トン、マッシュタンはステンレス製のセミロイタータン、発酵槽はステンレス 3 基にダグラスファー材の木桶 1 基。清酒蔵に併設された、小さなウィスキー蒸留所 ― それが江井ヶ嶋の身の丈です。

スチルがストレート型で、コンデンサーが太いということは、reflux(還流:気化したアルコールがスチル内で再凝縮して戻る量)がさほど多くなく、重めで麦芽感の強いスピリッツが下りてくる方向に振られている、ということです。これは Glenmorangie の 5.14m の tall still が軽い酒を狙う設計 とは逆方向で、むしろ地方蔵らしい、素朴で穀物感のある原酒を作る器です。豪奢でも先鋭でもない。

立地は「日本一海に近い蒸溜所」を名乗るほど瀬戸内海の岸に近く、潮を含んだ湿潤な空気のなかで原酒が熟成します。海辺の熟成は、内陸の冷涼な軽井沢(標高 850m)や信州(798m)とは正反対の環境です。温暖で湿度が高いぶん熟成は速く進み、塩気を帯びた角の丸い酒になりやすい。派手な個性ではなく、土地そのものの平凡さが、そのまま瓶に入るような作りです。

あかし、という遅れてきた答え

江井ヶ嶋が初めてシングルモルト「あかし」をリリースしたのは、2007 年。免許取得から実に 88 年後です。「あかし 15 年」は、最初の 12 年半をスペイン産シェリー樽で熟成し、残り 2 年半を日本産オークでフィニッシュする構成で、冷却濾過もカラーリングもしていない。地味だが正直な作りです。

近年のジャパニーズウィスキー・ブームのなかで、「あかし」は静かに再評価されています。WHISKY Magazine Japan は、輸入ウィスキーの酒税緩和でかつて存亡の危機に直面したこの蔵が、「ジャパニーズウイスキーの人気に背中を押され息を吹き返した」と書いています。賭けなかったから残れた。残っていたから、ブームが来たときにそこにいられた。これは、軽井沢が辿れなかった道です。軽井沢はブームが来る前に消えてしまった。明石は、ただ消えなかったことによって、半世紀後の評価に立ち会えた。

ここに、賭けない経営のひとつの真実があります。賭けない者は、大きな勝ちを手にすることはない。けれど、ゲームのテーブルから降ろされることもない。テーブルに座り続けてさえいれば、いつか配られるカードが良くなる日が来るかもしれない ― 江井ヶ嶋酒造の 100 年は、そういう種類の賭けでした。賭けないという賭け。いちばん退屈で、いちばん成功率の高い戦略です。

一番早く取って、一番遅く報われる

卜部兵吉は 1919 年に免許を取り、1926 年に死にました。彼は自分が取ったウィスキー免許が、自前のスチルで本物のモルトを蒸留する日(1984 年)も、そのモルトがシングルモルト「あかし」として瓶詰めされる日(2007 年)も、ジャパニーズウィスキーが世界で評価される日(2010 年代以降)も、一つとして見ていません。彼が見たのは、輸入原酒を詰めたホワイトオークのラベルまでです。

これは軽井沢の内堀修身が、自分の育てた原酒が億で落札されるのを見られなかったのと、よく似た構造です。違うのは、内堀は「賭けた側の現場」を約半世紀生き、兵吉は「賭けなかった側の経営」を一代で終えたこと。どちらの決断も、その人が生きているあいだには報われませんでした。決断の果実は、いつも本人の死後に熟す。

そして兵吉の決断 ― 賭けず、固まって、残る ― は、いまも瓶の中に残っています。「あかし」の角の丸い、塩気を帯びた、派手さのない味わいは、海辺の小さな清酒蔵が背伸びせずに作った酒の味です。そこには軽井沢のような悲劇の重厚さも、山崎のような賭けの華やかさもない。あるのは、一番早く許可を取りながら一番無名であり続けることを、結果として選んだ蔵の、慎ましい正直さだけです。

日本のウィスキー史を Suntory と Nikka の二本立てで語る癖を、私はもう手放しました。その手前に、蒸留器も持たずに免許だけ取った明石の蔵があり、その蔵は賭けなかったがゆえに今も生きている。鳥井信治郎が賭けて勝ち、内堀修身が賭けて消え、卜部兵吉は賭けずに残った。三者三様の決断のうち、いちばん語られないのが兵吉の決断です。けれど、語られないことと、間違っていたことは、違う。明石のグラスを傾けるたびに、私はその差を舌の上で確かめています。

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