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秩父のミズナラ発酵槽と4日発酵

技術
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ステンレスの発酵槽は、使うたびに洗えます。苛性ソーダを回して熱湯を通せば、内壁の微生物はほぼゼロまで落ちる。次のバッチは前のバッチの汚染を引きずらない。状態をリセットできる系のほうが、デバッグも管理も楽に決まっています。

ところが秩父の蒸留所では、その「洗える」を捨てた発酵槽が瓶の中身を決めています。木桶、それもミズナラ(Quercus crispula)で組んだ発酵槽。木は完全には殺菌できません。木目の奥に微生物——とくに乳酸菌(Lactobacillus)——が棲み着き、洗ってもそこから出てこない。

洗いきれない容器をわざと選び、そこに棲む「飼えない微生物」を飼い続ける。 その非効率を秩父で選び続けている肥土伊知郎の判断を、発酵の化学とトレードオフから読みます。

秩父の発酵プロファイル図解。横軸が発酵時間(0〜96時間)、縦軸に酵母活性と乳酸菌個体数の二本の曲線。0〜48時間は酵母(Saccharomyces cerevisiae)が糖をエタノールに変える主発酵で、エタノール濃度が5〜8%に達し温度が上昇、48時間で酵母が失速する。48〜96時間は乳酸菌(Lactobacillus)が30〜40時間から増殖し70時間前後でピークを迎え、弱った酵母の自己消化で出た脂肪酸・アミノ酸を栄養に乳酸を生成、乳酸から乳酸エチル等のエステルが増加する。一般的な蒸留所は48時間で蒸留に回すが、秩父は約4日(72〜96時間)発酵させ二次発酵の領域まで踏み込む。発酵槽はミズナラ材で殺菌不能ゆえ乳酸菌が木目に定着する。判断者は肥土伊知郎、2008年稼働。

発酵槽の中では、途中で役者が入れ替わる

発酵は大きく二つのフェーズに分かれます。

発酵の二段階の対比図。0〜48時間は酵母 Saccharomyces cerevisiae の主発酵で、麦汁の糖を食べてエタノールと二酸化炭素を出す。エタノール濃度5〜8%で自分が出した熱とアルコールにむせて失速し、制御していない木桶では温度が10〜20°C上がることもある。ここで蒸留に回すと、クリーンで穀物的で再現しやすい新酒になる。30〜96時間は乳酸菌 Lactobacillus の二次発酵で、木目の奥に棲み洗っても出てこない。弱った酵母が自己消化で放出する脂肪酸やアミノ酸を栄養に乳酸を作る。30〜40時間で増殖期に入り70時間前後で個体数のピーク。この二段目こそがミズナラ発酵槽を選ぶ理由のすべて。

第一フェーズ、酵母の主発酵。 麦汁(wort、麦芽を糖化した甘い液)に酵母を加えると、糖を食べてエタノールと二酸化炭素を出します。おおむね最初の48時間で大半が進み、エタノール濃度が5〜8%に達すると、酵母は自分の出した熱とアルコールに「むせて」失速しはじめる。教科書的なウイスキー作りは、ここで蒸留に回します。

第二フェーズ、乳酸菌の二次発酵。 発酵を止めずに置いておくと、酵母が弱った後の舞台に別の役者が出てきます。乳酸菌は発酵開始から30〜40時間で増殖期に入り、70時間前後でピークを迎える。弱った酵母が自己消化(autolysis)で放出する脂肪酸やアミノ酸を栄養にして、乳酸を作りはじめます。

この二段目が、ミズナラ発酵槽を選ぶ理由のすべてです。

乳酸が乳酸エチルになるところ

乳酸そのものは香りの主役になりません。香りになるのは、エタノールと結合して乳酸エチル(ethyl lactate)——乳製品様でフルーティなエステル——に変わったときです。

発酵後半に増えるエステルの原料表。乳酸は乳酸菌の発酵に由来し、乳酸エチル(乳製品様・フルーティ)になる。酢酸は酵母の防御反応(40〜50時間で約10倍)に由来し、酢酸エステル類になる。脂肪酸は弱った酵母の自己消化に由来し、ラクトン類(果実・ココナッツ様)になる。フーゼル油はアミノ酸分解(Ehrlich 経路)に由来し、フーゼル酸エステル類になる。乳酸そのものは香りの主役にならず、エタノールと結合して乳酸エチルになったときに香りになる。

醸造化学の経験則では、55〜60時間より短い発酵は、この二次発酵によるエステル生成フェーズをまるごと取りこぼすとされています。逆に65〜75時間を超えると、乳酸菌が十分に働いて酸が蓄積し、エステルが豊かに乗る。

ここで「では発酵時間さえ延ばせばよいのでは」と計算したくなりますが、話はそう単純ではありません。延ばした分だけ、乳酸菌に主導権を渡すことになるからです。

発酵時間の比較スケール。一般的なシングルモルトは約48時間で、酵母主導のクリーンで再現しやすい新酒になる。エステル生成の下限は55〜60時間で、これより短いと二次発酵を取りこぼす。酸が蓄積しはじめる帯は65〜75時間で、乳酸菌が十分に働きエステルが豊かに乗る。秩父の第一蒸留所は72〜96時間(約4日)で、業界標準のほぼ倍。前半の約2日で酵母が糖をアルコールに変え終え、後半の約2日でミズナラの木目に棲む乳酸菌が引き継ぐ。

秩父が選んだのは「約4日」

秩父第一蒸留所の発酵スペック表。発酵時間は秩父が約4日(72〜96時間)に対し一般的なシングルモルトは約48時間。発酵槽の材質は秩父がミズナラ(世界初)に対し一般はステンレスまたはオレゴンパイン。発酵槽の数は秩父が8基(当初6基から増設)。1基あたり容量は約2,000 L。麦芽は秩父が一部フロアモルティングを自前化しているのに対し、多くの蒸留所は購入麦芽。肥土伊知郎は「ミズナラを発酵槽に使うと、そこに棲みつく乳酸菌が違ってくる。乳酸菌は発酵中に香りを生むので、菌の種類が変われば風味も変わる」と説明している。

業界標準のほぼ倍の発酵時間。偶然ではなく、二次発酵の領域まで意図的に踏み込むための設計です。前半の約2日で酵母が糖をアルコールに変え終え、後半の約2日でミズナラの木目に棲む乳酸菌が引き継いで、乳酸とエステルを積み上げる。秩父の新酒が「青くて乳酸的でフルーティ」と評される厚みは、この後半2日で作られています。

発酵槽がミズナラであることに、もう一段の意味があります。木の種類によって、そこに棲み着く乳酸菌の「相」が変わる。 ステンレスやオレゴンパインの槽に定着する菌叢と、ミズナラに定着する菌叢は同じではない。肥土伊知郎自身、ミズナラを発酵槽に使うと「そこに棲みつく乳酸菌が違ってくる。乳酸菌は発酵中に香りを生むので、菌の種類が変われば風味も変わる」と説明しています。

容器を風味の変数にしているわけです。設定ファイルではなく、実行環境そのものをチューニングパラメータにしている。

この判断を下したのは肥土伊知郎

肥土伊知郎(1965年生)は、閉鎖した羽生の約400樽を救出して2008年に秩父蒸溜所を稼働させた人物ですが、その救出劇は熟成、つまり樽の話でした。ここで扱うのはその手前、発酵という別工程での判断です。

新興の小規模蒸留所が、わざわざ世界に前例のないミズナラ発酵槽を作る。合理だけで説明できる選択ではありません。ミズナラは加工が難しく高価で、樽材としてさえ歩留まりが悪い木です。それを、毎バッチ酸性の麦汁にさらされ定期的に擦り洗いする、消耗の激しい用途に使う。普通の事業判断なら、ステンレスを8基並べて48時間で回し、ロット間のブレを潰すほうが「正しい」。

肥土はそれをしませんでした。彼が秩父でやっているのは、製麦から発酵、蒸留、熟成までを自前で抱え、各工程を風味の変数として手元に残すことです。発酵槽をミズナラにするのは、その思想の発酵工程版にあたります。

木桶は「正解」ではない

「ミズナラ発酵槽こそ本物」と書いて終わるなら、それは蒸留所のパンフレットです。代償を並べます。

木桶とステンレスのトレードオフ対比。ステンレスの洗える発酵槽は、苛性ソーダを回して熱湯を通せば内壁の微生物がほぼゼロまで落ち、次のバッチが前のバッチの汚染を引きずらない再現性がある一方、二次発酵の領域に入らないぶん風味が平板になりやすい。状態をリセットできる系のほうがデバッグも管理も楽に決まっている。ミズナラの洗いきれない発酵槽は、洗浄労力として内部を物理的に擦り洗いするしかなく薬液CIPで一様にリセットできず完全には落ちない。汚染リスクとして「飼える乳酸菌」と「飼いたくない雑菌」の境界は管理しきれず、良い乳酸発酵と酢酸過多は紙一重。ロット間のブレとして棲み着いた微生物叢は季節や経年で変化し、3月と9月のバッチが完全には一致しない。寿命とコストとして木桶は消耗品でミズナラは高価、交換のたびに菌叢も組み直しになる。これらの代償を払ってでも後半2日の乳酸エステルが欲しい、という一つの賭け。

これらは実在のコストで、世界の大半の蒸留所がステンレスと短時間発酵を選ぶ理由でもあります。肥土の選択は万人の正解ではありません

実際、秩父の第二蒸留所(2019年稼働)では、第一の全ミズナラに対してフランス産オークの発酵槽を採用しています。同じ作り手が、槽の木を変えれば菌叢が変わることを承知のうえで、別の表現を取りに行っている。肥土自身、「ミズナラが唯一解」とは考えていないわけです。

今の瓶に残っているもの

秩父の新酒と熟成後の瓶に残るものの図。左に、ヨーグルトやサワークリームを思わせるトーンは乳酸エチルの寄与で、後半2日に乳酸菌が働いた発酵の指紋。青いリンゴや洋梨のフルーティさはその他のエステル群の寄与。右に、熟成後も下地として残り、ミズナラカスクや各種フィニッシュの華やかさの「下」に乳製品様の厚みと果実の芯がある。確かめ方は、樽の香りをひと通り拾ったあとで、その奥のヨーグルト様のニュアンスを探すこと。中央に「洗いきれなさが、出力の個性になる」。リセットできない状態を抱えたまま運用し続けるシステムで、普通なら技術的負債と呼ぶが、捨てなかった非効率が瓶の中で味方になっている稀なケース。

秩父の新酒を嗅ぐと、穀物のクリーンさの奥に、ヨーグルトやサワークリームを思わせる乳酸的なトーンと、青いリンゴや洋梨のようなフルーティさが乗っています。前者が乳酸エチル、後者がその他のエステル群の寄与です。48時間でクリーンに切り上げた新酒には出にくい層で、後半2日に乳酸菌が働いた発酵の指紋といえます。

熟成を経た瓶でも、この乳酸エステル由来のフルーティさは下地として残ります。樽香の華やかさの「下」に、乳製品様の厚みと果実の芯がある。次に秩父を開ける機会があれば、樽の香りをひと通り拾った後で、その奥のヨーグルト様のニュアンスを探してみてください。

レガシーコードを読むエンジニアの目で見れば、ミズナラ発酵槽はリセットできない状態を抱えたまま運用し続けるシステムです。普通なら技術的負債と呼ぶ。けれど秩父の場合、その「洗いきれなさ」こそが出力の個性を生んでいる。捨てなかった非効率が、瓶の中で味方になっている稀なケースです。


主な参考資料

関連: イチローズモルトと肥土伊知郎のミズナラ(同じ木を樽材として使う側)/ 羽生の400樽を救出した判断(秩父が建つ前の話)/ ミズナラ樽とウィスキー・ラクトン(ミズナラという木の化学)