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John Glaser と『瓶のラベルに書けないこと』 ― Compass Box が SWA に挑んだ透明性の代償

人物
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ラベルに書けないことのある瓶を、私は棚に何本か持っています。書けない理由は、規制が消費者を守っているからで、同時に、規制が消費者から情報を奪っているからでもあります。この矛盾の輪郭をいちばん明瞭に描き出した男が、今日の話の主役です。

2015年の秋、Compass Box という小さなブレンダーが、自社の Flaming Heart 15周年記念版This Is Not a Luxury Whisky という二本の瓶について、中身の樽すべての年齢と割合を web 上で公開しました。「Caol Ila 30年が何パーセント、Clynelish 30年が何パーセント、Highland Park 22年が何パーセント」というタイプの開示です。これを見て業界は二つに割れました。一方は「待っていた情報だ」と歓迎し、もう一方、特に Scotch Whisky Association(SWA)は、これは規制違反だ、と通告しました。

通告書の核は EC 規則 110/2008 の第12条3項でした。簡単に言うと「年数を書くなら、blend のうち最も若い樽の年数だけを書け、それより古い樽の年齢に言及してはいけない」というルールです。Compass Box はこの通告に従って、web から開示を取り下げました。

しかし話はここで終わりません。Compass Box の創業者は、翌2016年2月、規制を変えるためのキャンペーンを正式に立ち上げます。

その男の名前を、John Glaser と言います。

Compass Box と John Glaser のキャリアタイムライン。2000年にロンドン西部の自宅キッチンテーブルで創業(最初のリリースはグレーンスコッチ Hedonism)、2005年に Spice Tree 初版(フレンチ・オーク inserts)、2006年 SWA 通告で生産中止、2009年9月に樽の蓋のみ Vosges 産フレンチ・オークに置換した再設計版で復活、2015年秋に Flaming Heart 15周年と This Is Not a Luxury Whisky の web 上で全樽組成を公開して SWA 通告(EC 110/2008 Art 12.3 違反)、2016年2月18日に Scotch Whisky Transparency Campaign 開始(Bruichladdich と Tomatin が支持)、2017年に SWA「業界内コンセンサスなし」で不採択、2024年2月29日に Glaser 退任、2024年9月に core range が 4 本に再編されて Hedonism / Spice Tree / Flaming Heart は限定枠へ。

ブレンダーになる前のキャリア

Glaser はアメリカ・ミネソタ州で育ちました。生年についての確かな一次情報はなく、業界誌も明確な数字を出していません。Miami University(オハイオ州)で学位を取り、Burgundy と Napa Valley のワイン業界で経験を積み、1990年代に Diageo の Johnnie Walker のマーケティング部門に入った。最終ポジションは複数の業界誌が Global Marketing Director と書いています。

2000年、彼はそのポジションを辞めて、ロンドン西部の自宅のキッチンテーブルで Compass Box を立ち上げました。最初のリリースは Hedonism、グレーンウィスキーだけで作る blended grain Scotch です。シングルモルトでもブレンデッドスコッチでもない、グレーンだけ。Diageo の中で Johnnie Walker の構造を見てきた人間が、独立後にまず出したのが「ふつうは脇役にしかならないグレーンを主役にした瓶」だった、という事実は彼のあとのキャリアを少し説明します。彼の独立は業界に対する宣戦布告ではなく、自分の好奇心の置き場を変えただけの判断でした。それが結果として、業界の規制と二度ぶつかります。

一度目の衝突 — Spice Tree (2005)

最初の衝突は、透明性ではなく樽の chemistry の話でした。

2005年、Compass Box は The Spice Tree を出します。アメリカン・オークの ex-bourbon 樽の中にフランス産オークの細い板(inserts)を挿入する設計です。アメリカン・オーク由来のバニラ系 lactone と、フレンチ・オーク由来のスパイス系成分を、同じ樽の中で同時に当てる。フィニッシュ(一度別の樽に詰め替える工程)ではなく、最初から両方を同居させました。

SWA はこれを additional flavouring に該当する、と通告します。スコッチの定義は「伝統的な oak cask での maturation のみで風味を獲得すること」を要求しているので、樽の中に異物を挿入する行為は flavouring 添加と等価である、という解釈です。Compass Box は2006年に Spice Tree の生産を中止しました。

Glaser が興味深いのは、通告にしたがった上で、約3年かけて再設計を進めたことです。2009年9月に新しい Spice Tree が出ます。樽の蓋(heads、cask の両端の円盤部分)だけを Vosges 産の heavily toasted フレンチ・オークに交換する設計でした。側板は元のアメリカン・オーク、蓋だけ別の木。これは樽の構造としては伝統的な工程の範囲内に収まる、という SWA の解釈を取り付けた再リリースです。

工学的に見れば、これは互換性破壊なしのワークアラウンドです。仕様(SWR)を破らずに、機能(フレンチ・オーク由来のスパイス)を提供する別の経路を見つけた。彼はここで初めて、SWA の解釈の境界線がどこにあるかを実地で学びました。ここで彼が設計の天才だったと書きたいのですが、実際は試行錯誤の3年で、彼が運用したのは設計力ではなく、規制との交渉で諦めずに別ルートを探す粘りでした。

二度目の衝突 — 透明性 (2015)

10年後、二度目の衝突が起きます。今度は樽の物理的な設計ではなく、樽の「情報」をどこまで公開してよいかの話でした。

Compass Box は Flaming Heart 15周年記念版 を発売するにあたり、自社 web に factsheet を載せました。ブレンドに使った各樽の年齢、原酒の蒸留所、樽のタイプ、ブレンド全体に占める割合が percent 単位で全部書いてある。スコッチのブレンダーが、自社製品の中身をここまで具体的に開示した前例は、ほぼありませんでした。

これに対し SWA は、EC 110/2008 第12条3項を根拠に違反通告を出します。条文の趣旨はこうです。「年数表記をする場合、それは必ず blend のうち最も若い alcohol component の年数でなければならない」。Compass Box の web 開示は古い樽の年齢にも言及しているため、この条文に抵触する、という解釈です。

ここで重要なのは SWA の解釈の論理です。Flaming Heart 15周年 というラベル自体は規則違反ではありません(製品名の “15” は brand name の一部であり age statement ではない、という整理)。問題は瓶の外側、つまり web のマーケティング素材で「30年の樽が含まれる」と書くことが、消費者に「これは30年の whisky だ」という誤った印象を与えうる、という点でした。

「規制は消費者を守るためのものでは?」と思うのは正しい反応で、SWA の説明はその通りです。年数表記の厳格化は1980年代後半以降、古い樽が少しだけ入った瓶を「20年もの」と称して売るという業界の悪習を防ぐために導入されてきました。

Glaser の言い分はこうでした。「最年少表記は floor、最低保証としての意味があるのは認める。しかし、それより古い樽の存在を 追加情報 として開示することは ceiling の議論であって、消費者保護とは別の話だ」。彼は SWA の立法趣旨を否定したのではなく、その趣旨は floor を守ることであって ceiling を抑え込むことではない、という別の解釈を提示しました。問題は、条文の文言上は floor と ceiling が分けられていなかったことです。Glaser がやりたい ceiling の透明な開示 は、現行条文の下では原理的に違反になる構造でした。

Compass Box は通告を受けて、2015年10月から11月にかけて web 上の詳細開示を取り下げます。

SWR の youngest cask ルールの概念図。ブレンドに 12年、15年、18年、22年、30年の5種の樽が使われていても、ボトル表示できる年数は最年少の 12年だけ。マーケティング素材で他の樽の年齢に言及することも EC 110/2008 第12条3項の age statement 規定に抵触する。Compass Box が2015年に web で全 cask の年齢と割合を開示したのは、この ceiling の側の情報を消費者に渡そうとした試みだった。

三度目の決断 — 規制を変えにいく (2016)

ここからが Glaser の本当の決断です。

2016年2月18日、Compass Box は Scotch Whisky Transparency Campaign を立ち上げました。これは、SWR と EC 110/2008 を改正して、optional な詳細開示(最年少樽の年数を書いた上で、追加情報として古い樽の年齢や割合を書きたい blender が書ける、というオプション)を認めてほしい、という提案です。3,000筆以上のオンライン署名が集まりました。

支持を表明したブレンダー・蒸留所は、二つだけでした。Bruichladdich がアイラから、Tomatin がスペイサイドから公的に賛同しました。特に Tomatin は SWA メンバーの中で唯一の支持表明だった、と業界誌は書いています。残りの SWA メンバー、つまり Diageo、Pernod Ricard、Edrington、William Grant のような大手は、いずれも積極的な支持を示しませんでした。

ここで彼の運動が成功したと書きたいのですが、結果は不採択でした。SWA は2017年に「業界内に変更のコンセンサスは存在しない、現行法は fit for purpose である」という公式見解を出し、Glaser は同年、キャンペーンを終了します。彼の発言を業界誌が引用しています。「I guess it’s the end of the campaign for now(とりあえず、今のところは終わりということになりますね)」。

このフレーズの for now の部分が、私には引っかかります。完全な敗北宣言ではない、という意思表示にも読めますが、同時に、このタイミングで業界を動かすのは無理だ、という諦めの輪郭でもあります。

開示が残ったのは、瓶ではなく blog だった

不採択の後、Compass Box は第三の道を取りました。ボトルラベルや製品の梱包には詳細を書かない(SWR を遵守する)。しかし、自社 web の factsheet ページには、消費者が能動的にアクセスすれば全部の樽組成が見られる、という運用にしました。「マーケティング素材」と「消費者向け詳細情報」の境界を慎重に運用する形で、現在まで続いています。

エンジニアリングの言葉に翻訳すると、こんな構造です。SWR は API spec で、SWA はその標準化団体。Glaser は spec の拡張提案(RFC 的な)を出して採択されなかった。その上で彼は、spec を破らずに、別レイヤー、つまり外部の documentation site に同等の情報を comprehensive に書く、という運用を選んだ。Spice Tree の樽の蓋を換えた判断と、構造的に同じ解です。

3つの決断を並べて見ると、Glaser は規制との戦いで連敗しています。Spice Tree の再設計は3年の生産中止を伴い、2015年の透明性開示は Compass Box 側の引き下がりで終わり、2016年のキャンペーンは3,000筆の署名にも関わらず SWR の改正という成果を出せなかった。連敗の代償は彼が個人的に支払いました。Compass Box は SWA との関係を悪化させたまま運営を続け、業界の主流から距離のある位置にずっと置かれた。Glenfiddich や Macallan のような mainstream の credit は最後まで控えめでした。

しかし、彼の連敗は業界に一つの動かない事実を残しました。SWR の透明性条項について、業界の中から optional な詳細開示を許可してほしい と公式に提案した最初の声があった、という記録です。条文は変わっていない。しかし、業界の言説の中に「透明性をどこまで書いてよいか」という問いの存在が、確実に残されました。

英語側のこのサイトには Frank McHardy が Springbank の silent years を生き延びさせた話 があります。McHardy は伝統的な floor malting を「やめない」決断を18年間繰り返した継承の人物。Glaser はその対極で、業界の規制構造そのものに「変えてほしい」という proposal を出した撹乱の人物です。両者ともに、自分が下した決断の評価を、自分の現役のキャリアの中では最後まで見届けられない、という共通点を持っています。

2024年2月29日 — 退任と core range の再編

Glaser は2024年2月29日に Compass Box の代表を退任しました。23年間の運営です。

連敗の途中で、彼は資本構造の妥協もしていました。2015年に Bacardi が少数株を取得、2022年4月に Caelum Capital という投資ファンドが多数株主になり、独立 blender としての出発点と退任時の Compass Box の形は、同じものではありません。これは透明性運動の「失敗」と同じくらい、彼のキャリアの輪郭を作っている事実です。

2024年9月、退任の半年後に Compass Box は中核ラインアップを再編しました。Hedonism(彼が最初に出した瓶)、Spice Tree(彼の樽実験の象徴)、Flaming Heart(透明性運動のきっかけになった瓶)、すべて core range から外れて限定リリース枠に移動した。新しい core range の四本は The Peat MonsterOrchard HouseCrimson CasksNectarosity です。これは「遺産を否定した」という話ではありません。限定枠に移ったということは、引き続き製造はされている、ということです。ただ、彼が現役のときに前面に置いていた瓶は、退任を境に後ろに下がった。透明性運動は不採択で、代表作の多くは core から限定枠に移り、彼は2024年の閏日に静かに退任しました。

瓶のラベルに書けないことが、blog に書かれている

Compass Box の web の factsheet ページは、いまも生きています。The Peat Monster でも Orchard House でも、PDF を開けば樽の蒸留所、年齢、樽のタイプ、ブレンド比率が percent 単位で書いてある。これは Glaser のキャンペーンが採択されなかった結果として残った、運用上のワークアラウンドです。

ボトルのラベルには、相変わらず最年少樽の年数しか書かれていません。SWR は変わらなかった。しかし、消費者が能動的にアクセスすれば、瓶の中身の組成は、おそらくスコッチ業界で最もよくわかる形で開示されています。彼が引き受けたトレードオフのおかげで、いま私が Compass Box の瓶を買うとき、その中身の組成を factsheet.pdf のリンクから読むことができる。彼の決断は瓶のなかではなく、サーバー上に残りました。彼は瓶のラベルに書けなかったことを、blog のなかに移すことに成功した。「成功」と呼ぶには地味すぎる結果ですが、一人で達成した変化としては、たぶんちょうど正しいサイズです。

ラベルに書けないことのある瓶を、私は棚に何本か持っています。書けない理由が変わらなかったのは、彼の責任ではありません。書けないことがラベル以外の場所で読める形になっているのは、彼の責任の範囲です。


関連記事

主な参考資料

  • Compass Box 公式サイト — 現行 factsheet(樽組成 PDF)
  • WhiskyCast「Compass Box’s Glaser: Transparency in Scotch Whisky Sadly Illegal」(2015年11月3日)— whiskycast.com
  • Scotchwhisky.com「Compass Box launches transparency campaign」(2016年2月18日)— scotchwhisky.com
  • Scotchwhisky.com「Compass Box ends transparency drive… for now」(2017年)— scotchwhisky.com
  • Whisky Advocate「Compass Box Founder John Glaser Steps Down」(2024年2月)— whiskyadvocate.com
  • Whisky Advocate「Compass Box Announces New Core Collection」(2024年9月30日)
  • The Spirits Business「Compass Box names new majority investor (Caelum Capital)」(2022年4月)— thespiritsbusiness.com
  • 英国 Scotch Whisky Regulations 2009 (SI 2009/2890) — legislation.gov.uk
  • Charleston City Paper「John Glaser is breaking some rules with Compass Box Whisky」(2012年5月、Glaser の生い立ちに関する一次インタビュー)